ロフト付きはおもしろい

ロフト大好きの68歳の老人の日記です

大阪に30分の田舎 我が故郷 昭和20年代の航空写真 

大阪に30分の田舎 我が故郷 昭和20年代の航空写真



有馬道は、阪急の線路を越えています。
もちろん平面交差なので
踏切があるのですが、
警報機も遮断機も当時は、ありませんでした。
ちなみに今は、
堤防の改修時に立体交差になっています。
そんなことでよく事故がおきなかったことですね。

昭和54年ごろまでは、
私の住んでいた踏切には、
警手さんが常駐していました。
上の写真の真ん中の踏切です。
どんなふうに仕事をされていてかというと
次のようです。
(今は、警手さんのいる踏切は、
皆無に近いので
詳しく述べます。)

たぶん朝の7時半ごろ
踏切の小屋にやってきます。
学校の生徒が登校する前です。
自転車で来ていたように思います。
小屋は、畳半畳より少し大きいくらい。
横にガラスの付いた扉があり
もう片方と線路側にも窓がありました。
木造の粗末なつくりで
冬や夏は、過酷な状態になるったでしょう。
夏は、ヨシヅを下げていたようにも思います。

小屋の中には、いすがひとつあり
そこに座って待ちます。
警報機が鳴ると
いすの前の白熱灯が着きます。
白熱灯は、2個あって
電車の来るほうが点灯します。
そうすると警手さんは、
外に出て
遮断機を閉めます。
遮断機の端には、
ワイヤがあって
もう片方の遮断機も閉まります。
それから電車の方向に向かって
白い旗を振ります。
もちろん危険があるときは、
赤い旗を振るのだと思います。
夜は、白いランタンを振っていました。
昼は、お弁当を小屋で
召し上がっていました。
夕方5時ごろ仕事は、終わって帰ります。

昭和55年ごろ警手さんは、
近くの駅の駅員さんになって
踏切は、
自動の遮断機になりました。

警手さんの仕事は、
一見簡単そうですが
大変な仕事ですよね。
私には、絶対勤まりません。