ロフト付きはおもしろい

ロフト大好きの68歳の老人の日記です

アパートさくら荘の思い出  昭和30年代初めの頃の生活を映し出すブログ小説 1

私の名前は、小原信三
です。
そうそう今から話す昭和35年ごろは、
まだ山本信三でした。

私は、昭和15年6月18日生まれ
辰年です。

本題のさくら荘に住んだ頃
にお話しする前に
少しだけ私の生い立ちをお話しましょう。

私のうまれた家は、
今は、兵庫県篠山市福住です。
父は長く日華事変から始まる戦役に
行っていました。
私が生まれる2年前に
やっと除隊になりました。
そのためふたりの兄とは、
歳が離れています。

私の家は、丹波の山の中の
谷あいにあり
肥沃な大地を耕す祖父祖母父母兄はよく働き
それなりの収穫はありましたが
租税や小作料を払うと
残りは少しでした。

冬作は、雪のためできません。
冬はもっぱら山仕事です。

そんな家で育った私は、
必然的に倹約の精神が
身についていました。
新生の中学から
当時としては珍しい
高校にも行きました。

父がこれからの時代は、
「教育以外貧乏人ががんばれる場所はない」
と言うことから
二人の兄には
大変迷惑をかけましたが
高校に行きました。

高校では、
私自身が言うのも
おこがましいことですが
勉強に明け暮れました。
朝の早くから
夜遅くまで勉強しました。
でも勉強していたのは、
私だけではありません。
ほとんどの人は、
熱心に勉強をしていました。

私の家は、山の縁の少し高台にありましたので 村の中がよく見渡せました。 夜遅くまで 電気が消えない家が そこかしことありました。 その明かりにみんなもがんばっているんだと 励まされた気がしました。

当時は、4当5落と呼ばれ
4時間しか寝ずに勉強すると大学に合格し
5時間寝ると落ちると言われていました。
私は、家の経済状況を考えると
とても「大学に行きたい」とは言えませんでした。

そのため就職試験を受けて
大阪本社の電器会社に勤めることになりました。
当時はテレビラジオや電化製品の
購入ラッシュで電器会社は、活況でありました

私は入社すると 大阪天満の社宅に入りました。 社宅は古い木造住宅で 1階に4部屋 2階に6部屋ありました。 各部屋とも 四畳半でしたが 2人ずつ暮らしていました。

私は、当時としては珍しい高校を出ていましたので 社員待遇で

このブログ小説は、すべてフィクションです。