ロフト付きはおもしろい

ロフト大好きの71歳の老人の日記です

長編小説「昭和」その3

その1その2を少し書き換えました。 1

この物語は
明治・大正・昭和を
疾風のように駆け抜けた
人々の物語です。




今からもう150年前になるのでしょうか
大きな変化がなかった
平和な江戸時代から
怒濤の
大変革の明治時代になった頃から
このお話は始まります。

江戸時代は
農業の世界では
全くといって良いほど
進化しませんでした。

唯一
大きく変わったのは
脱穀のやり方です。

社会の教科書で
習ったことがあると思いますが
「千歯こぎ」が
発明されたことです。

それまでは
干した後
棒で叩いて脱穀していました。

新しく考案された
千歯こぎは
鉄の刃が細い隙間を挟んで
並んでいて
そこに
稲穂を通すだけで
脱穀するもです。
て
農業の効率が
飛躍的に
改善したということが
伝えられています。

今から考えると
そんなものが
「飛躍的」
と形容されるのですから
江戸時代が
如何に
十年一日が如くの世界でした。

いや
百年一日が如くの世界でした。

しかし表面化はしていませんでしたが
着実に
時代の進化は
生じていたのです。

それが
顕在化して
明治維新に
進んでいくのですが
この物語に出てくる人物には
それを知るよしもありません。

否応なしに
そんな怒濤の時代に
放り出された
人々が
一心不乱に
懸命に生きていく
物語です。

場所は
武庫郡今津村
(むこおごおりいまづむら)です。

現在は
兵庫県西宮市今津です。

阪神電車今津駅の北側
今津曙町です。


この物語のころの
今津は
半農半漁の港町でした。

砂浜が続く
海岸線の
砂防林の後ろに
田んぼが
広がっていました。

田んぼには
夏はお米
冬には野菜や麦
畦には豆と
使えるものは
わずかなところも使って
農業は営まれていました。

そしてその
田んぼのほとんどが
ほんの一握りの
大地主が
持っていました。

実際に
田んぼで農業を営むのは
小作人でした。

村のほとんどの人が
小作人で
お米を作りながら
お米は
ほとんど食べたことがない
人達でした。

出来たお米は
大半を
地主に年貢として
納めなくてはなりません。

そうしないと
田んぼを取り上げられてしまいます。

取り上げられると
もう生きていくことが出来ませんので
小作人は
地主に
絶対服従です。

大地主と
小作人の関係は
殿様と家来の関係のように
厳格なもので
小作人が
土下座して
大地主に面会する姿が
見られたものです。

この物語の
最初の登場人物は
何百年も
小作人として
働いてきた
家に生まれた
清左衛門(せいざえもん)です。

清左衛門は
家督を相続した
明治10年からの名前で
幼名を亀太郎と言います。

長男です。

兄弟は
他に
姉と弟がふたり
妹が3人です。

江戸時代の初めに
名字を名乗ることが禁止されていたので
清左衛門の家には
姓はありません。

それに代わる
屋号があり
カネセイと呼ばれていました。

村では
共同の仕事が多く
農機具が
誰のものかわかるように
名前を書くことになっていて
亀太郎の家では
清の漢字に
¬の記号が右肩に付いている
印を付けていました。
¬を一般的にカネと呼ぶので
カネセイと呼ばれていたのです。


3

亀太郎の父親は
もちろん清左右衛門で
同じ名前です。

代々戸主が同じ名前を
名乗っていたのです。

天保8年2月15日に生まれました。

西暦1837年の生まれです。

天保の大飢饉の最中です。

清左衛門の住んでいた
今津村では
大きな被害はなかったのですが
米価が高騰して
町民の餓死者が出た
大坂では大塩平八郎の乱が起こったりしました。

清左衛門の家では
もともと
お米など
食べていなかったので
それなりに
何とかやっていました。

小作の子供は
小作です。

小作の子供として生まれた
清兵衛は幼いときより
親譲りの努力家でした。

物心付いたときから
親の手伝いのために
野良仕事に出かけました。

その頃の誰もがそうであったように
朝は日の出を待たずに
仕事に出かけ
日が西の六甲の山並みの中に消えて
真っ暗になる頃家に帰ってきたのです。

亀太郎が
生まれた時には
父親の
妹がふたり
弟がひとりいました。

野良仕事に出かける時には
父親と母親
叔父さんとふたりの叔母さん
亀太郎と
上の姉とが
クワを持って
出かけました。

家には
父親の母親の
お祖母さんと
妹が
下の兄弟の
面倒を見ながら
家事をこなしていました。