ロフト付きはおもしろい

ロフト大好きの71歳の老人の日記です

ブログ小説「昭和」筋立て

この物語の主人公は大正5年(1916年)に生まれますがこの話は明治維新1867年から始まります。

場所は、清酒で有名な灘五郷の今津郷での話です。今津は西国街道が瀬戸内海に至る場所にあって今津の浜がありました。主人公の曾おじいさん野田清左衛門はこの時35歳農業で鍛えた体は精悍です。当時の農業は人手が頼りです。家長の命ずるまま一心になってひとつひとつの工程をつつがなく終わらせなければなりません。幸いにも先代の清左衛門も元気で部屋住みの叔父と叔母それと清左衛門の弟妹も貴重な労働源でした。もっと相棒は清左衛門が4年前に結婚した「おます」(戸籍の名前はひらがなで「ます」ですが女性の人は敬称をつけない代わりに「お」をつけます)でした。おますは、背丈6尺に届きそうな大柄でしっかりした体をしていました。清左衛門の家には自作地はほとんどなく家の敷地周りの畑くらいでした。

明治維新の27年前清酒に適した水が宮水であることが話わかりました。地元の今津郷にある大関酒造でも宮水を使って清酒造りをもちろん始めたのですが宮水の井戸まで少し距離があったので農閑期の農夫を使うことにしました。明治維新になって清酒の需要が伸びると宮水はもっと運ばなければならないことになります。そんな話を聞いた清左衛門も運ぶことにしました。井戸から大関酒造までは平地でしたが途中に川があって坂を上らなければなりませんでした。使っている大八車はスムーズに進まないので梶棒を清左衛門後ろをおますが押しました。皆が2回往復するところを清左衛門は3回往復できたのです。水を運ぶとその場で現金をもらえたのです。村人の中にはその金をすぐに使ってしまうものもいましたが清左衛門は蓄えていたのです。宮水運びは冬場のみですが、何冬か過ぎると村はずれの田んぼを買い入れたのです。自作地にはもちろん小作料もないので地租を払っても残りました。野田家は他の農家より豊かになって農耕牛も使ってますます盛んになりました。先代の清左衛門から家督を受け継ぐ明治10年後ごろには小作地を返して自作農になっていました。まだまだ元気な清左衛門はその冬も宮水運びをしました。宮水運びは馬車にとって代わるまで続きます。家督を譲る1885年頃には清左衛門が所有する田畑は4町歩(4万平方メートル)になっていました。作男数人いました。

清左衛門には、長女おせい、長男鶴松、二女およし、次男伊之助の4人の子供がいます。清左衛門とおますは仕事に明け暮れていましたので実際に面倒を見たのは先代の妻子供から見ればおばあさんです。鶴松は、家業の農業をほとんどしません。なんだかんだと言って勉強ばかりしていました。家長は先頭を切って仕事をしなければ家人はついてこないと清左衛門は思っていました。一計を案じた清左衛門は、弟の9歳の伊之助に家督を譲ったのです。鶴松は世話になっている倉野家の養子となりました。鶴松の実際の生活は今までと変わりなく勉強ばかりしていました。それから11年が過ぎた時伊之助はよく働いていたのですが何分病気がちで重労働の農業はとても無理と清左衛門は考えました。清左衛門は、鶴松に「農業に身を入れて野田家を継いでほしい」と言いました。鶴松は優しい人間でしたから父親の言うことを聞くことにしました。それまで通っていた私塾もやめ家業を手伝ったのです。清左衛門は、結婚させれば家業にも身が入るだろうと考えて甑岩(西宮市甑岩町)の大地主の娘おひろと結婚させました。それから3年後野田家の生末を案じつつ清左衛門は、68歳で亡くなります。鶴松は家督を継ぎましたが実際の差配はおますがしていました。農業自体は実際番頭格の作男がつつがなくしていたので鶴松はほとんど仕事をしませんでした。そんな中鶴松とおひろの間には9人の子供が生まれます。上から宗太郎(享年2歳)およし(享年1歳)利之助 清治郎(享年2歳)おつぎ おまきゑ 武治 尚三(享年1歳)そして末子が主人公おとく(とくは登久の変体仮名)です。

仕事はそこそこの鶴松でしたが優しくて子煩悩な父親でした。特に末子のおとくには優しくて時間さえあれば鶴松はおとくのそばにいました。長男の利之助はそれを忌々しく思っていたのですが鶴松はわかりませんでした。ある時鶴松は当時としては女性が乗ることはあまりない自転車をおとくに買ってきました。おとくは聡明で誰とでも仲良くなれる子供でしたが運動だけは苦手でした。自転車に乗るなどとんでもないということで泣いて拒否したのです。鶴松はがっかりしてその自転車を自らの手で壊してしまいました。おとくが5歳になった時おますが急逝し実際の仕事をやっていた番頭格の作男が後を追うように他界しました。こののち鶴松は自分の判断で4町歩の田畑を守っていかなければならないのですが、優しくて厳しく処断できない鶴松は大きな危機を迎えます。その時期はすぐに来てしまいます。人に頼まれると嫌とは言えない鶴松は寄ってくるいろんな人におごったりお金を渡したり保証人なったり一緒に遊びに行ったり、時には「のみうつかう」をしたりして散財しました。乳母日傘で育ったおとくですが、だんだんと苦しくなるのだけを子供の目で見ていました。おとくは尋常小学校では体育と音楽以外は優秀な成績でおとくは学校の先生をになることを夢見ていました。でも父親の鶴松の最後の失敗、世話になった人の保証人になったことにより残っていた家も追われることになります。母のおひろの実家の納屋に住むことになります。甑岩は当時は相当田舎、納屋は牛舎も兼ねていていました。雨露をしのげるだけでありがたく思うようにしました。尋常小学校はかろうじて卒業しましたが、働きに行くことになりました。清左衛門が世話をした人の口利きで逓信省の電話交換手に奉職しました。当時女性の仕事の最先端の仕事ですが13歳のおとくにとっては大変な仕事です。ジャックとランプの付いた差込口のある交換台の前に座っての仕事です。おとくは、成人すると6尺(約180㎝)の細身だが背が高い女性になりますが、13歳の時は一番上のジャックには手が届きませんでした。そこで家から座布団を持って来てその上に座って仕事をこなしていました。交換業務をすると資料箋を一枚書くことになります。この数でどれだけ働いたかがわかるのです。電話交換手はお互いに競って枚数を稼いでしました。おとくは最初はもちろんできませんでしたが背が伸びると枚数も増えてきました。二十歳の頃には通信書記補になっていました。通信書記補は係長のような職で部下の電話交換手が用を足すときに代わりに交換業務をするくらいです。一家の大黒柱として働いていたおとくですが、21歳の時鶴松が「みんなに迷惑をかけた、すまない」(字を書くことは得意ですのでもっと長文で説得力のある涙を注ぐ文章です)と言い残して自殺してしまいます。悪いことは重なるもので、おとくが大好きだったすぐ上の武治兄さんが砲兵部隊の騎乗兵として中国戦線に転戦していましたが戦病死の広報が届きます。もうひとつは、おとくの大きな負担となることでした。利之助兄さんの奥さんおうたが突然の病気で亡くなってしまいます。父親の利之助は、軍属として中国に行ってしまって、おとくには甥と姪にあたる実と博子を育てなければならなくなったのです。そんなこんなでおとくは、母親と甥・姪の3人を養わなければならなくなったのです。おとくは、少しでもお給料の良い職場に移りたいと思いました。電話交換手としての免許は持っていましたのでたまたま見つけた武田薬品の電話交換手募集に応募しました。人懐っこいおとくは面接官に気にいられて仕事に就くことになりました。武田薬品(職場は尼崎市高田にあった武田薬品の工場です。今は富士フイルムのグループ会社和光純薬、高田が職場だったことが後で杉原庫蔵知り合うことになります。)は先進的な職場ですが女性の正社員はわずかでその中のひとりです。実際の仕事はかかってきた電話に会社を代表して応対し実際の者に繋いでしました。かかってきた番号と誰で誰に繋いだかを同じように資料箋書きました。この資料箋が後で役立つことも多々ありました。「10時と3時にはお茶を小遣いさんが持ってきた」と話していました。お給料は高いのですが、戦争が激しくなると配給が遅配になって食料品を買えなくなったのです。食べ盛りの子供ながら大柄の実と博子の食料を調達するために軍需工場の森永製菓塚口工場(国鉄の塚口駅東前にあった)に勤めることになりました。電話交換手では食料が手に入らないので炊事婦として仕事に就きました。軍需工場は食料が豊富でよかったのですがアメリカ軍の空襲が何度も襲ってきました。工場の中央にある木造の食堂がグラマンの機銃掃射にあった時にはおとくは、生きた心地はしませんでした。銃弾が屋根を突き抜けコンクリートの床に当たってコンクリートがはじけ飛びました。おとくは無事でしたが同僚は破片が当たって血を流していました。何度も急降下して襲ってきました。おとくは見上げるグラマンの操縦士の顔がはっきりと見えました。

おとくが28歳の時(1944年)本籍が和歌山の男性と結婚します。(相続のために除籍戸籍謄本を見て初めて知りました。なぜそのような結婚をしたのか全く分かりませんが、離婚した原因はたぶんですがその時期に結核性の痔ろうになって余命6カ月を宣告されたとのことですのでこれが原因だと推測しています。このくだりは全くのフィクションで書きます。

筋書きでは謎めいた時代であるように書いてください。

離婚して甑岩に帰ったおとくは余命6カ月を貯えを使って静かに過ごしていたのですがあるとき気づくと病気が平癒していたのです。おとくは清左衛門の家が門徒であったことから浄土真宗を深く信じていたのでこの軌跡を阿弥陀如来・ご先祖様のおかげと思っていました。いつまでも甑岩には居れないしおひろが今津に帰りたいと言うので帰る方法を算段していました。食糧難が続く戦後で買い出しに園田の農家を訪れておとくは、単刀直入に聞きました。「奥さんを募集している方で、大工仕事ができる方はしりませんか」と誰彼なしに聞いて回りました。誰とでもすぐ知り合いになれる性格のおとくでしたから、聞かれた人は親身に答えました。瓦宮の村はずれに住んでいる杉原さんが妻を亡くして困っているということがわかったので、とくは当たって砕けろの精神で家を訪れて「私を奥さんにしてください。それとこのお金で今津に家を建ててください」言いました。農業は人手が必要なので大柄なとくは見所があると庫蔵はおもいました。それから庫蔵の家は戦争中焼夷弾で全焼したのですが疎開住宅の材木を伊丹で調達してひとりで建てたものです。庫蔵には18歳になる長女初子15歳になる長男進と一緒に住んでいました。多感な歳なので反対でしたが、農業を続けて生きるためにはそれしかないと庫蔵は決断しました。おとくの要求に応じて今津の隣町用海町に借地を借りおとくが貯えていた500円で家を建てました。粗末な作りでしたが甑岩の納屋よりは数段使い易い家になりました。そこに母おひろと実と博子を住まわせ少し安心しました。農業の仕事は過酷です。寒い冬雨の降り続く梅雨真夏のカンカン照り今まで電話交換の仕事でしたから経験のないきつい仕事でした。朝は日が上る前に起き朝間の仕事をして家に帰ってお米を炊いて朝食の準備をします。朝食を済ませると片づけをしてから掃除洗濯を済ませ田んぼの仕事をします。昼少し前に家に帰って昼食の用意それから昼食を済ませ夏でしたら昼寝をして後片付けです。午後も田んぼの仕事をして夕食の準備です。お風呂は夏でも隔日冬なら1週間ごとでした。夕食後はかたづけをした後夜なべ仕事です。服はほとんど買うことなしに生地を買って作り痛んだら繕います。電気は戦後まもなくやってきましたが、水道は昭和32年頃でお風呂の水は近くの川から、飲料水は庫蔵の家には飲めるような井戸がないので300mくらい離れた空き家の井戸水を汲みに行っていました。庫蔵の兄の家が前にあったのですが、おとくを認めていない兄の長男の奥さんが使わしてくれなかったのです。庫蔵との間にはすぐに子供榮子(榮は栄の旧漢字)が生まれました。その後も2回妊娠しましたが子供が増えると経済的に大変だということで堕胎していました。そのとき産婦人科の病院で知り合ったのが友達となる畑敏子でした。畑と知り合ったのは偶然でしたが庫蔵が耕していた畑の隣の三菱電機の寮に畑の夫が出稼ぎで住んでいてそれからも親交がありました。庫蔵の家には家の周りに親からもらった自作地の畑、独立してから買った田んぼが1か所小作地の田んぼが4か所畑が1か所ありました。戦後GHQの指示で農地改革が行われ畑1か所と田んぼ1か所が自作地となります。残りは小作地でしたが小作料は極めて安く設定されていました。4年たった時妊娠していることが分からず生まれてきたのが庫蔵から見れば次男正治です。正治は体が弱く生まれて間もなく脳膜炎に罹ります。母は隣の駅前にある白壁医院に連れていき抗生物質の注射で一命をとりとめます。その後強健の進が肺炎になってしまったので抗生物質を使いました。健康保険制度が未熟だったころで杉原家にとっては大きな出費でした。現金収入を得るために畑で作った野菜を中央市場に出荷したり、おとくがリヤカーで近くの住宅地に売りにいっていました。それでも大きなお金にはならず生活は赤貧でした。庫蔵は聡明で技術を持っており働き者でしたが、短気でした。少し気にいらないことがあるとおとくや子供につらく当たります。理由は聞いたことがないのでわかりませんが、おとくは栄子の手を引き私をおんぶして飛び込み自殺がよくある阪急電車の瓦宮西踏切にやってきて相当の時間考え込んでいました。栄子が「帰ろー」と言ったので我に戻りました。

昭和30年の冬のある日庫蔵は朝間の仕事をして朝食の後気分が悪くなって寝込みました。1時間寝た後外の便所に行こうとして土間に倒れ込みました。その音でおとくが近づいた時にはもう意識はなく進とふたりがかりで布団に寝かせ瓦宮にあった診療所の先生に見せました。あとでわかったのですが庫蔵は高血圧で今で言う脳血管障害でした。いまならすぐに治療を始めてそれからリハビリとなるのですが当時は卒中は絶対安静で動かさない以外の治療法はなかったのです。おとくは3年間寝たきりの庫蔵を看護しました。農業は進だけで行っていたのですが、ちょうど自宅横の小作地を地主が売ったので小作人の庫蔵にも現金が入ってそのお金で食いつなぐこととなりました。おとくは、庫蔵の介護を行っていましたがいつまでたっても病状は変わりません。誰に聞いたのか自分で編み出したのかわかりませんが、庫蔵に今で言うリハビリをさせたのです。最初はタンスにつかまり立ち、伝い歩きをしてもらいました。まだまだ若かったこともあるのでしょうかメキメキと動けるようになって松葉杖さえあれば歩けるようになり自分で自分のことはできるようになりました。庫蔵の問題はなくなったのですが家業は限界でした。進ひとりでは農業はできません。おとくは農業のことを全くわかりません。肥料を田んぼに撒きすぎて稲が育ちすぎてお米が採れなくなっておとくは、農業ではなく他の方法を考えたのです。駅から6分のところの農地解放で得た土地を持っていたのですがその隣に4畳半のアパートありました。それをみておとくは、作ろうと思ったのです。畑に通じる道は狭かったので隣地の地主に2倍の面積で交換し通り抜けができる土地になりました。まず4.5畳のお部屋が20室あるアパートを建てました。お金は地主さんが小作地を売ったお金の一部が入ってそのお金で支払いました。うまくいったので隣に16室のアパートを建てることにしました。資金がないので農協から融資を受ける約束をして建て始めました。完成したので農協へ行くと状況が変わって融資できないというのです。おとくは途方にくれました。でも気を取り直して他の銀行を当たることにしました。尼崎の国道筋を玉江橋から順番に銀行を訪ね回りました。朝から回り始めてから夕陽になったころ幸福相互銀行で融資してくれることになって無事に終わりました。ある時おとくは、隣の駅の塚口に行って帰ってきて「モータープール」を始めると正治に言いました。正治は水泳でもするのかと聞いてみると駐車場をするというのです。村で初めて貸駐車場をしたのはおとくでした。おとくが家計を切り盛りする中、庫蔵は趣味の木工をしていました。それから1カ月に1回くらいの割合で宝塚温泉に行っていました。昭和47年に山陽新幹線が開通しますがその数年前より用地買収の話が杉原の家にも入ってきました。杉原が所有する田んぼと屋敷の敷地を3か所が対象です。おとくはそのお金を貯めておくのではなくそのお金を担保にしておとく・進・栄子・正治の名義で借家を建て始めたのです。おりしも成長期であったため賃料ですぐに元本を返すことができたのです。庫蔵は亡くなる10年位前から体が不調になり徐々に寝たきりとなります。おとくは介護をしましたが昭和56年に亡くなります。享年86歳でした。おとくは、介護に明け暮れた26年間でした。おとくは65歳になっていましたがまだまだ元気でした。仕事としては借家の管理で、掃除もおとくの仕事でした。余った時間はお寺周り講話を聴いて回りました。少々遠いところも出かけていきました。そんな中69歳の時に胃がんになってしまいます。大阪大学で手術をして一命をとりとめると前よりも元気になって旅行に行ったりしていました。20年余が過ぎ90歳を超えたころから少し老人性痴ほう症になっていきました。認知症という言葉がまだなっていない時です。91歳ころになると時々発熱していました。あとでわかったことですが誤嚥性肺炎でした。それに気づかないまま93歳の正月誤嚥性肺炎になり食事が摂れなくなって中心静脈栄養になってしまって寝たきりになりました。訪問看護と正治と妻その他の者で看護をしていました。2011年11月13日午前9時にまず息が止まった後数十秒後に心臓が止まってしまって長い人生を終わります。享年96歳(満年齢は95歳3か月)

 

母は亡くなりましたが、年金をもらう歳になった正治は、国民年金以外に国民基金年金と中小企業機構年金をもらっています。おとくが国民基金が始まった1991年からかけ始めていました。亡くなってからも子供のことを考えてくださったと思います。