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①
ブログ小説「昭和」 前書き
人生は果てしなく長い旅であり、誰にも秘められた物語がある。人はなぜ生き、なぜ死んでいくのか。苦しい思いを重ね、悲しみに打ちひしがれても、なお生きようと懸命にもがき、また立ち上がるのは何故か。
私は母のことを思い出す度、人生の意味や、生きることの苦しさに胸が締め付けられる思いになる。
この物語は、数奇な運命に翻弄されながらも、力強く激動の時代を生きた、私の母の一代記である。
私の母の話をする前に、私の先祖からのルーツを振り返る必要がある。時は折しも江戸から明治への過渡期、明治維新の真っ只中である、1867年。母の祖父である野田清左衛門は、清酒で名高い灘五郷のひとつである、今津郷で農業に従事する小作農であった。
彼は恵まれた体躯を活かし、家業である農業に精を出し、また家族も一家総出で家業を盛り立てた。そして、野田家の物語は彼の息子に引き継がれ、後に家督を次いで三代目清左衛門と名乗る彼は持ち前の才覚を発揮し、野田家を広大な耕作地を抱える自作農にまで発展させた。やがて、その系譜はその子の伊之助、鶴松へと続いていく。
だが、その過程で鶴松の代に家運が傾き、一家は経済的に窮乏する。その鶴松の末娘が、私の母のおとくである。おとくは裕福だった家が次第に貧困に陥って行く様を幼い目で見て、人生の辛酸を味わい、様々な思いを抱えながら育っていった。
おとくは苦境にも負けず、人生の苦難に立ち向かった。彼女は聡明で、優しい娘であったが、13歳の頃から逓信省の電話交換手として働き、20歳になる頃には一家の大黒柱として家計を支え、父や兄の死という不幸に見舞われても、逞しく不屈の精神で運命と向き合い、愛する家族のために粉骨砕身、努力を重ねた。
彼女は持って生まれたその知性と機転を活かし、戦時中の厳しい時代を生き抜いた。何度も死の淵から生還し、生きることへの執念とも言うべき力強さで、周囲の人々にもその生き様を見せ付けた。
長くは続かなかった結婚生活と離婚、病魔に蝕まれ、余命宣告を受けるなど、受難の時期は続いたが、おとくは決してくじけることなく、生命の炎を燃やし続けた。彼女の不遇な人生は、戦後の混乱期においても変わらず、再婚した夫からは辛く当たられ、その夫が脳卒中で倒れた後は彼を献身的に介護した。
その後も夫のリハビリをしながら商才を発揮し、最後まで強く家族を支えた母は、老後は認知症と胃がんを患い、2011年にその苦難の生涯を閉じた。
私が母から学んだことは、どんなときでも決して諦めず、生命を燃やして生きることである。母は強さと逞しさをあわせもった女性で、彼女は私に人生というものの美しさと、生命の尊さを身をもって教えてくれた、私にとってはこの世で最も敬愛する女性である。
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②
とくの一生は、華やかな成功よりも「静かな強さ」に満ちている。明治から大正へ移りゆく頃、祖父は貧しい小作人から家族総出の働きで自作農へと成り上がり、一家は今津でも指折りの田畑を持つようになった。その努力は誇りであり、とくの心に深く刻まれた家の“背骨”だった。
しかし、繁栄は永遠ではなかった。とくの父は人が良く、知人の保証人を引き受けたことで多額の債務を抱え、家屋敷は手放される。追われるように家族が向かった先は、母おひろの実家の納屋だった。家賃も不要であたたかく受け入れられたが、かつての暮らしとの落差は大きく、幼いとくは“没落”という現実を早すぎる年齢で受け止めることとなった。
それでも泣いている暇はない。高等小学校を卒業すると、家族を支えるために逓信省の電話交換手として働き始める。小柄で交換台に届かず座布団を重ねた少女は、やがて「声のきれいな子」と評判を呼び、職場に欠かせない存在となった。より安定した収入を得るため武田薬品へ転じ、家計の柱として働き続ける。
昭和16年、戦争が始まる。職場は軍属となり、空襲に怯えながらの勤務が続いた。甥や姪の世話に奔走し、食糧難が深刻になると少しでも食べ物の手に入りやすい森永製菓へ移った。日常のすべてが縮みゆく時代のなかで、とくは一度も弱音を吐かずにただ「生き抜く」ことを選んだ。
そんな激動のさなかの1944年12月23日、とくは和歌山の男性と結婚する。しかし、戦争末期の混乱と価値観の違いは大きく、終戦から間もない1945年11月23日に離婚。わずか一年足らずの結婚生活を胸に封じ、とくは再び今津へ戻る。語らぬ傷を抱えつつも、前を向くしかなかった。
のちに再婚した夫は誠実な農家であったが、脳溢血で倒れ、長い介護生活が始まる。農作業も難しくなり、とくは家族の暮らしを守るため貸家業を決意。土地の交換交渉、建築、入居者対応……すべてを一人で担い、事業を軌道に乗せていった。さらに新幹線用地買収が後押しとなり、生活はようやく安定していく。
晩年、とくは胃がんを患いながらも、節句の弁当作りや季節の行事を欠かさなかった。やがて誤嚥性肺炎により寝たきりとなり、静かに息を引き取る。
没落、戦争、離婚、介護、事業の立ち上げ——そのすべてを耐え抜き、とくは最後まで家族のために働き続けた。一冊の歴史書には決して載らないが、ひとつの時代を生き切った女性の強さがここにある。
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③
物語は、明治維新の余韻が残る灘五郷・今津郷から始まる。清酒の里に生きる曾祖父・野田清左衛門は、宮水運びで蓄えたわずかな現金を土地に替え、一代で四町歩の地主となった。だが、その背を見て育った長男・鶴松は、汗よりも書を好む青年だった。
家の未来を危ぶんだ清左衛門は、弟の伊之助に家督を譲るという奇策に出る。しかし病弱な伊之助に家を任せられず、結局は鶴松を呼び戻し、甑岩の大地主の娘・おひろを娶らせる。二人のあいだに九人の子が生まれ、末子として育ったのが本作の主人公・おとくである。
鶴松は誠実だが、頼まれごとを断れず、保証人となり、酒と遊興に金を使った。宮水で築いた財は少しずつ崩れ、やがて家も田畑も失われていく。幼いおとくの眼に、父が日に日に小さくしぼんでいく姿だけが焼きついた。
十三歳、おとくは一家を支えるため尋常小学校を卒業するとすぐ電話交換手として働き始める。その後、鶴松は「皆に迷惑をかけた」と遺して自死し、さらに兄・武治が中国戦線で病死、兄嫁の急逝、利之助の出征と続き、残された甥と姪をおとくが育てることになる。気づけば、少女は家族の柱となっていた。
戦時下、おとくは武田薬品で交換手を務め、食糧難のため森永製菓の軍需工場で炊事に立つ。頭上をグラマン機がかすめ、屋根を貫いた弾片が同僚を傷つける。死は呼吸のすぐ隣にあった。
二十八歳の結婚は、夫の結核性痔ろうが判明し、半年の余命を宣告されて終わる。離婚し、死を待つように甑岩へ戻ったおとくは、訪れぬ死の代わりに「生きよ」という声のようなものを感じる。それは阿弥陀如来と先祖の導きだと、彼女は思った。
戦後の混乱期。家族を呼び戻すため、おとくは「妻を亡くし困っている男」を探し歩く。そして大工の杉原庫蔵と出会い、「私を奥さんにしてください。このお金で家を建ててください」と告げる。強さとも諦念ともつかぬ求婚に、庫蔵は人生を賭けて応えた。
しかし農業は貧しく、庫蔵は脳卒中で倒れ、三年の寝たきりとなる。多くが諦める状況で、おとくは独学で夫を歩かせるまでに回復させたが、家業としての農は限界を迎えていた。
荒れた畑を前に、おとくはひとつの光を見る。「アパートを建てよう」。戦後の住宅不足を読み、地主からの売却金、農協の融資、銀行への直談判を積み重ね、ついに二棟のアパートを建て上げる。さらに村で初となるモータープール経営にも乗り出した。
明治、大正、昭和――激動の時代に、倒れては立ち上がり、失っては築き直す。
おとくは、ただの農家の娘ではない。
歴史の荒波を、自らの足で渡りきったひとりの女性である。
戦争、貧困、災禍、そして人の情。
多くを背負いながらも、彼女は誰をも恨まず、ただ静かに命を燃やし続けた。
これは、近代日本の陰影と光を、一つの家族の血脈を通して描く、ひそやかな“日本の叙事詩”である。
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④
私が生まれたのは大正五年。けれど私の物語は、私が生まれるずっと前から始まっている。家というものは、誰か一人の人生でできているわけではなく、積み上がってきたものの上に立っているのだと、私は後になって知った。
小さいころ、夜なべの手を止めた母が、ぽつりぽつりと昔話をすることがあった。灘五郷の今津。西国街道が瀬戸内海へ抜けるところに今津の浜があり、酒の匂いと潮の匂いが混じる土地。そこに、私の曾おじいさん――野田清左衛門がいた。明治維新のころ三十五歳、農業で鍛えた体は精悍で、当時の百姓仕事は人手がすべて、家長が命じれば皆が一心になって黙々と働く。先代の清左衛門も元気で、部屋住みの叔父叔母、弟妹もいて、働き手には困らなかったという。何より相棒が、清左衛門が四年前に娶った「おます」だった。戸籍ではただの「ます」でも、女は敬称の代わりに「お」を付けて呼ぶ。背丈が六尺に届きそうな大柄で、骨太で、押しの強い人だった、と母は言った。
そのころ、清左衛門の家には自作地がほとんどなく、家の周りの畑くらいしかなかった。けれど、酒造りに欠かせない水――宮水が清酒に適していると分かり、地元の大関でも宮水を使うようになると、宮水を運ぶ仕事が増えた。井戸から酒蔵までは平地でも、途中に川があり坂がある。大八車の梶棒を清左衛門が引き、おますが後ろから押す。皆が二回往復するところを清左衛門は三回往復し、その場で現金を受け取った。村には稼いだ端から使う者もいたが、清左衛門は違った。冬場の宮水運びで得た金を貯め、何冬か過ぎたころ、村はずれの田んぼを買った。小作料のいらぬ自作地は、地租を払っても手元に残る。野田家は他の農家より豊かになり、農耕牛も入れ、仕事はますます盛んになった。
清左衛門はやがて小作地を返し、自作農になっていく。家督を譲るころ――明治十八年、いや、母の話ではその前後、清左衛門が所有する田畑は四町歩にもなり、作男も数人抱えていた。そうして家は形になった。けれど家というものは、豊かになったところで終わらない。そこから先は、誰が継ぎ、誰が守り、誰が崩すのか――その試される時間が始まる。
清左衛門には四人の子がいた。長女おせい、長男鶴松、二女およし、次男伊之助。清左衛門とおますは働きづめで、子の面倒を見たのは先代の妻――私から見れば曾祖母にあたる「おばあさん」だったという。長男の鶴松は家業の農業をほとんどせず、勉強ばかりしていた。家長は先頭を切って働かねば家人はついてこない、と清左衛門は考えた。そこで清左衛門は一計を案じ、なんと九歳の伊之助に家督を譲った。鶴松は倉野家の養子となる。形の上では家を出たのに、鶴松の暮らしは変わらず勉強ばかりだったらしい。
それから十一年。伊之助はよく働いたが、病気がちで重労働の農業はとても無理だと清左衛門が判断する。清左衛門は鶴松を呼び戻し、「農業に身を入れて野田家を継げ」と言った。鶴松は優しい人だったから父の言うことを聞き、私塾もやめ、家業を手伝う。清左衛門は結婚させれば身が入るだろうと考え、甑岩の大地主の娘――おひろを嫁に迎えた。そして三年後、清左衛門は六十八歳で亡くなった。家の行く末を案じながら。
ここから先は、私が「家の影」として感じて育った時代だ。鶴松が家督を継いでも、実際の差配はおますがした。農業そのものは番頭格の作男が仕切り、鶴松はほとんど仕事をしなかったという。その家に九人の子が生まれた。幼くして亡くなった子もいた。宗太郎は二歳、およしは一歳、清治郎も二歳、尚三は一歳。残った子の中に、利之助がいて、おつぎがいて、おまきゑがいて、武治がいて――そして一番下に、私がいた。末子、おとく。登久という字の変体仮名が、私の名の始まりだった。
私の父――鶴松は、仕事はそこそこでも、優しくて子煩悩だった。特に末子の私には甘かった。時間さえあれば私のそばにいた。長男の利之助兄さんはそれを忌々しく思っていたらしいが、父は気づかなかった。父はあるとき、当時では珍しく、女の子に自転車を買ってきた。私は聡明で誰とでも仲良くなれたが、運動だけは苦手で、転ぶ自分の姿が目に浮かんで怖くなり、泣いて拒んだ。父はがっかりし、その自転車を自らの手で壊してしまった。あの時の音と、父の背中は、今も不意に思い出す。私は父の期待に応えられなかったのではなく、父のどこかの糸を切ってしまったのかもしれない。
私が五歳のとき、おますが急に亡くなった。さらに、実際の仕事を回していた番頭格の作男も、後を追うように亡くなった。家の中から、支えの柱が抜けていく。父は優しい人だった。優しいというのは、誰かを傷つけない力ではなく、ときに決断できない弱さにもなる。父は自分の判断で四町歩の田畑を守らねばならなくなり、そして危機はすぐに来た。頼まれると断れない父は、寄ってくる人に奢り、金を渡し、保証人になり、一緒に遊びに行き、時には「のみうつかう」ようなことまでして散財した。乳母日傘で育った私は、家が苦しくなるのを、子どもの目で見ていた。米の減りが早くなる。顔色の悪い大人が増える。言い争いはない。けれど黙りが増える。
私は尋常小学校で、体育と音楽以外は成績が良かった。先生になりたいと夢見た。教壇に立つ自分の姿を、ぼんやりとでも思い描いた。だが、父の最後の失敗――世話になった人の保証人になったことが引き金となり、残っていた家も追われた。母おひろの実家の納屋に移る。甑岩は当時かなり田舎で、納屋は牛舎も兼ねていた。雨露をしのげるだけでありがたいと思うようにした。私は歯を食いしばった。夢を見るのは贅沢だと、そのとき初めて知った。
尋常小学校はかろうじて卒業したが、私は働きに出ることになった。清左衛門が世話をした人の口利きで、逓信省の電話交換手に奉職した。当時の女性の仕事としては最先端でも、十三歳の私には、目の前の交換台が壁のようだった。ジャックとランプの付いた差し込み口、点く灯り、鳴る呼び出し。私は成人すると六尺ほどの背丈になるが、そのころはまだ小さく、一番上のジャックに手が届かなかった。家から座布団を持って行き、その上に座って仕事をした。交換業務をすると資料箋を一枚書く。その枚数で働きが見える。交換手たちは互いに枚数を競う。最初はできなかった。だが背が伸びると、枚数も増えた。仕事は手に馴染む。呼び出しの音が体の中に入ってくるような感覚になる。二十歳のころ、私は通信書記補になった。係長のような立場で、部下が用を足すときに代わりに座る。私は一家の大黒柱として働いていた。母と、そして甥姪まで背負うことになるとは、その時はまだ思っていなかった。
二十一歳のとき、父が自殺した。「みんなに迷惑をかけた、すまない」――父は字を書くことが得意だったから、実際にはもっと長い、涙を誘うような文章で、私たちを説得したのだろう。私の胸には、怒りも悲しみも一緒くたになって押し寄せた。けれど、泣いている場合ではなかった。悪いことは重なる。私が大好きだったすぐ上の武治兄さんが、中国戦線に転戦し、戦病死の広報が届いた。戦争というものは、遠い場所で起きていると思っていたのに、家の中に入り込んでくる。さらに利之助兄さんの奥さん――おうたが突然病気で亡くなった。利之助兄さんは軍属として中国へ行ってしまい、私は甥と姪にあたる実と博子を育てなければならなくなった。母と、実と博子。三人を養う。私の肩にのしかかるものは、目に見えないのに重かった。
少しでも給料の良い職場に移りたいと思った。電話交換手として免許は持っている。私は武田薬品の交換手募集を見つけ、応募した。人懐っこいと言われる性格が、こういうときは役に立ったのかもしれない。面接官に気に入られ、私は尼崎市高田にあった武田薬品の工場で働くことになった。女性の正社員はわずか。その中のひとり。会社を代表して応対し、担当に繋ぐ。番号、相手、繋いだ先、資料箋に書く。あの紙は、記憶の代わりだった。十時と三時には、小遣いさんが茶を持ってくる。そんな整った職場の話を、私は後年、誰かに語ったことがある。あのころの私は、整った時間がどれほど貴重か、身に染みていたのだ。
けれど戦争が激しくなると、配給が遅配になり、食料が手に入らなくなる。食べ盛りで体も大きい実と博子の腹を満たすには、交換台の前で働いているだけでは追いつかない。私は森永製菓の塚口工場――軍需工場に勤めることにした。炊事婦として。食料が豊富だったからだ。生きるには、食べさせなければならない。子どもは待ってくれない。口先の理想より、鍋の中身だ。そう割り切るしかなかった。
軍需工場には、別の恐ろしさがあった。空襲だ。アメリカ軍の攻撃は何度も来た。工場中央の木造の食堂が機銃掃射を受けたとき、私は生きた心地がしなかった。銃弾が屋根を突き抜け、コンクリートの床に当たり、床がはじけ飛ぶ。私は無事でも、同僚は破片で血を流していた。何度も急降下して襲ってくる。私は見上げてしまった。見上げたくないのに、見上げてしまった。グラマンの操縦士の顔が、はっきり見えた。人間の顔だった。遠い国の鬼ではなく、誰かの息子で、誰かの夫かもしれない顔が、私を殺しに来ている。その現実が、私の腹の底を冷たくした。
そのころ私は二十八歳、昭和十九年――一九四四年に結婚した。本籍が和歌山の男。相続のために戸籍を見て初めて分かった、というほど、家族にとっても謎の結婚だった。なぜそんな結婚をしたのか、私自身にもはっきりした言葉がない。戦争が終わる前で、明日が見えなかった。父は死に、兄は死に、空からは銃弾が降る。私は必死に働いて、必死に逃げて、生きてきた。けれど、ふと、足元が空になる時がある。どこまで逃げても、結局は死に追いつかれるのではないか。そんな考えが、夜の隅から這い出してくる。結婚は救いではなく、もしかすると終わり方を探す行為だったのかもしれない。
彼と暮らした時間は、霧の中にある。私はこの部分を「謎めいた時代」として語るしかない。確かなのは、どこかで私は「一緒に終わろう」と思ったことだ。心中しようとしたのかもしれない。けれど、その瞬間、頭の中に死が溢れた。祖父が自殺したと聞かされたときの、大人たちの空気。父の手紙の文字。兄の痩せていく体。空襲の中で倒れた人の、崩れた姿。死んだ人間は、静かに眠るのではない。美しく消えるのでもない。脆く、醜く、ただ壊れていくだけだ。私はそれを知っていた。知りすぎていた。だから、体が動かなかった。死にきれなかった。死の現実を知っているからこそ、死の方へ踏み出せない。私はそこで初めて気づいたのだと思う。私は、死が身近だったから必死に働いたのではない。死んだ人間がどうなるかを知っていたから、必死に生きたのだ。逃げたのだ。食べさせたのだ。私の中には、理屈ではない生命力が、ずっと湧いていたのだ。
その後、私は病に倒れた。結核性の痔ろう -余命六か月、といった設定は、ここは事実が確かではないから、物語としては「死の宣告」として描くのがよい。実際、私は「もう終わりだ」と思った。離婚して甑岩に帰り、貯えを使い、静かに過ごした。死ぬのなら、せめて騒がずに。そう思った。だがある時、気づくと病が平癒していた。奇跡、としか言いようがない。清左衛門の家は門徒で、私は浄土真宗を深く信じていた。阿弥陀如来と、ご先祖様のおかげ。そう思った。生かされたのなら、生きるしかない。私は生きる方へ、また体を向けた。
いつまでも甑岩にいられない。母おひろは今津に帰りたいと言う。戦後の食糧難の中、私は買い出しに園田の農家を訪れ、誰彼かまわず聞いて回った。「奥さんを募集している方で、大工仕事ができる方は知りませんか」自分でもあまりに単刀直入だと思ったが、回りくどいことを言っている余裕はなかった。私は誰とでもすぐ知り合いになれる性格だと言われる。聞かれた人は親身に答えてくれた。瓦宮の村はずれに住む杉原さんが妻を亡くして困っている、と。私は当たって砕けろの気持ちで杉原家を訪ねた。そして言った。「私を奥さんにしてください。それと、このお金で今津に家を建ててください」自分でも驚くほど、言葉はまっすぐ出た。死にかけた人間は、遠慮が消える。生きるための言葉だけが残る。
庫蔵――杉原庫蔵は、農業は人手が要るから、背が高く体の大きい私に見所があると思ったのだろう。庫蔵の家は戦争中、焼夷弾で全焼したが、疎開住宅の材木を伊丹で調達し、ひとりで建てた家だった。庫蔵には十八歳の長女初子、十五歳の長男進がいた。多感な歳だから反対もあった。それでも農業で生きるためにはそれしかない、と庫蔵は決断した。私の要求に応じ、今津の隣町用海町に借地を借り、私が貯えていた五百円で家を建てた。粗末でも、甑岩の納屋よりはずっと使いやすい家だった。私はそこに母と実と博子を住まわせ、少しだけ安心した。安心は、いつもほんの少しで十分だった。
農業の仕事は過酷だった。寒い冬、雨の降り続く梅雨、真夏のカンカン照り。交換台の前で働いてきた私にとって、田んぼは別の世界だった。朝は日が上る前に起き、朝間の仕事をして、家に帰って米を炊き、朝食を用意する。片づけ、掃除、洗濯、田んぼ。昼前に戻り昼食、夏なら少し昼寝、また片づけ、午後の仕事、夕食の支度。風呂は夏でも隔日、冬なら一週間に一度。夕食後は夜なべ。服は買わず、生地を買って作り、痛んだら繕う。電気は戦後まもなく来たが、水道は昭和三十二年ころ。風呂の水は近くの川から汲む。飲み水は、庫蔵の家に飲める井戸がないので、三百メートルほど離れた空き家の井戸から汲む。庫蔵の兄の家が前にあったが、私を認めない兄の長男の奥さんは使わせてくれなかった。水を汲む道のりは短いのに、気持ちは遠かった。
庫蔵との間にすぐ榮子が生まれた。その後も二回妊娠したが、子どもが増えれば経済的に大変だということで堕胎した。命の話を、私は軽くは扱えない。けれど当時は、軽く扱わなければ家が潰れる現実があった。産婦人科で知り合った畑敏子と友達になったのも、そのころだ。畑との出会いは偶然だが、庫蔵が耕す畑の隣の三菱電機の寮に畑の夫が出稼ぎで住んでいて、それからも親交が続いた。人は不思議な縁で繋がっていく。死が縁を切っていくのと同じくらい、縁はしぶとく残る。
庫蔵の家には、家の周りに親からもらった自作地の畑、独立してから買った田んぼが一か所、小作地の田んぼが四か所、畑が一か所。戦後、GHQの指示で農地改革が行われ、畑一か所と田んぼ一か所が自作地となった。残りは小作地でも、小作料は極めて安く設定されていた。だが、それでも生活は赤貧だった。現金収入を得るため、畑の野菜を中央市場に出荷したり、私がリヤカーで近くの住宅地に売りに行ったりした。それでも大金にはならない。生きるだけで精一杯だった。
四年たった時、妊娠していることが分からず生まれてきたのが正治だ。体が弱く、生まれて間もなく脳膜炎に罹った。私は隣の駅前の白壁医院へ走り、抗生物質の注射で一命をとりとめた。その後、強健だった進が肺炎になり、抗生物質を使った。健康保険制度が未熟なころで、出費は杉原家にとって大きかった。金は、命のために溶けていった。私は腹の底で何度も計算した。生かすには、どれだけ要るのか。生き延びるには、何を捨てるのか。
庫蔵は聡明で技術を持ち、働き者だった。だが短気だった。気に入らないことがあると、私や子どもに辛く当たった。理由は聞いたことがない。聞いても仕方がないと思っていたのかもしれない。ある日、私は榮子の手を引き、正治をおんぶして、阪急電車の瓦宮西踏切へ行った。飛び込み自殺がよくある場所だと言われていた。私はそこで、長い時間考え込んだ。死が選択肢として立ち上がる瞬間が、人生にはある。けれどそのとき、榮子が言った。「帰ろー」その声で我に返った。私は戻った。二度目の未遂だった。私はまた死にきれなかった。結婚のときと違い、今度はフラッシュバックではなく、体そのものが拒んだ。死は怖いのではない。死がどうなるかを知っているから、体が止まるのだ。私は、死を美しいものとして信じられない。壊れるだけだと知っている。だからこそ、生きる方へ引き戻される。私の中の生命力は、恥ずかしいほどしぶとかった。
昭和三十年の冬、庫蔵が倒れた。朝間の仕事をして朝食を済ませたあと、気分が悪いと寝込み、しばらくして便所へ行こうとして土間に倒れ込んだ。音で私が駆け寄ったときには、もう意識がなかった。進と二人がかりで布団に寝かせ、瓦宮の診療所の先生に診せた。後で分かったのは、高血圧による脳血管障害、いわゆる卒中だった。当時は絶対安静、動かさない以外に治療法がない。私は三年間、寝たきりの庫蔵を看護した。農業は進だけで行った。ちょうど自宅横の小作地を地主が売り、小作人の庫蔵にも現金が入った。その金で食いつないだ。私は介護をしながら、何度も天井を見た。ここで私が折れたら、家は終わる。死がまた近づいてくる。それだけは嫌だった。
病状は変わらない。誰に聞いたのか、自分で編み出したのか分からない。私は庫蔵に、今で言うリハビリをさせた。最初はタンスにつかまり立ち、伝い歩き。少しずつ、少しずつ。まだ若かったこともあるのだろう。庫蔵は動けるようになり、松葉杖があれば歩けるまで回復した。私は思った。人は、戻れる。戻れるなら、まだ間に合う。けれど問題は、家業の限界だった。進ひとりでは農業はできない。私は農業の勘がない。肥料を撒きすぎ、稲が育ちすぎて米が採れなくなる失敗もした。私は悟った。私は田んぼで勝てない。ならば別の場所で勝つしかない。
駅から六分のところに、農地解放で得た土地があった。その隣に四畳半のアパートが建っているのを見たとき、胸の奥が動いた。これだ、と。畑に通じる道が狭かったので、隣地の地主に二倍の面積で交換し、通り抜けできる土地にした。まず四畳半の部屋が二十室あるアパートを建てた。金は、地主が小作地を売った金の一部が入り、それで支払った。うまくいった。私は隣に十六室のアパートを建てることにした。資金がないので農協から融資を受ける約束で建て始めた。だが完成して農協へ行くと、状況が変わって融資できないと言う。私は途方に暮れた。頭の中が真っ白になる。あのとき、死がまた手招きしたかもしれない。でも私は、死に手を伸ばさなかった。気を取り直し、別の銀行を当たった。尼崎の国道筋を玉江橋から順番に、朝から夕方まで歩き回った。そして夕陽のころ、幸福相互銀行で融資してくれることになった。私はその場で深く息を吐いた。生きるとは、こういうことだ。誰かに救ってもらうのではない。自分で扉を叩き続けることだ。
ある日、私は塚口に行って帰ってきて、正治に言った。「モータープールを始める」正治は水泳でもするのかと聞いた。私は首を振った。駐車場だ。村で初めて貸駐車場をしたのは私だった。私は少し笑った。自分でも、よくここまで来たと思った。庫蔵は家計を私が切り盛りする中、趣味の木工をし、月に一度ほど宝塚温泉へ行った。そんな時間が、ようやく家に生まれた。
昭和四十七年、山陽新幹線が開通する。その数年前から用地買収の話が杉原家にも入ってきた。田んぼと屋敷の敷地、三か所が対象になった。私はその金を貯め込まなかった。貯めれば、また死が近づく気がしたのだ。金は溜めるより、形にして残すべきだ。私はその金を担保にして、おとく・進・榮子・正治の名義で借家を建て始めた。時代は成長期で、賃料ですぐ元本を返せた。私は「残す」という仕事を始めたのだと思う。自分が死んだあとも、子どもが倒れないように。私が見てきた死の連鎖を、ここで断ち切るために。
庫蔵は亡くなる十年ほど前から体が不調になり、徐々に寝たきりになった。私は介護をした。結局、私は二十六年、介護に明け暮れたことになる。昭和五十六年、庫蔵は亡くなった。享年八十六。私は六十五になっていたが、まだ元気だった。借家の管理が仕事になり、掃除も私の役目だった。余った時間は寺を回り、講話を聴き、少し遠いところへも出かけた。死を見続けた私は、死を怖がるだけの人間にはなれなかった。生きているうちに、できるだけ多くを聞いておきたかった。私が最後に何かに手を合わせるとき、そこに言葉が欲しかったのだ。
六十九のとき、胃がんになった。大阪大学で手術をし、一命をとりとめた。私は不思議なくらい、前より元気になった。生きる力は、衰えるより先に、また湧いてきた。旅行もした。笑うこともできた。二十年余が過ぎ、九十を超えたころから、少しずつ、頭の中に霧がかかるようになった。老人性痴ほう症――当時はまだ「認知症」という言葉が一般的ではない時代だ。九十一ころになると時々熱が出た。あとで分かったのは誤嚥性肺炎だった。気づかないまま、九十三の正月、誤嚥性肺炎で食事が摂れなくなり、中心静脈栄養になって寝たきりになった。訪問看護と、正治と妻、その他の者で看護してくれた。
二〇一一年十一月十三日、午前九時。まず息が止まり、数十秒後に心臓が止まったという。私はそこで長い人生を終えた。享年九十六。満年齢で九十五歳三か月、三万四千七百四十六日。
死が身近だった私の人生は、死で終わる。けれど、それは恐ろしい結末ではない。私は死を美しく思ったことはない。壊れるものだと知っていたからだ。だから私は、最後まで生きる方へ体を向けた。死から逃げた。生にしがみついた。誰かのために働き、守り、残した。母は亡くなったが、年金をもらう歳になった正治は国民年金だけでなく国民基金年金と中小企業機構年金も受け取っている。私が国民基金が始まった一九九一年から掛け始めていた。亡くなってからも、子どものことを考えていたのだと、人は言う。私はただ、死が突然来ることを知っていたから、残したのだ。
祖父が自殺し、父が自殺し、兄が病死し、空襲で人が次々と死んでいった。死体は脆く、醜く崩れ去る。それを私は見た。だから私は、死に逃げることができなかった。心中しようとした夜も、踏切に立った日も、体の奥から「生きろ」という力が湧いてきた。小さいころからずっと、内側から湧き出る力に満ちていたのだと思う。死が近いからこそ、生きる力が育つ。私の一生は、その証明だった。
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ブログ小説「昭和‐母の一生(仮題)」 全20話 筋書き
第1部:家の記憶と没落
第1話 曾祖父の挑戦──小作から大地主へ
<繁栄の礎──「土地は人を生かす」という信念が家の記憶を築く>
灘五郷・今津郷――。
冬の朝、宮水を積んだ大八車を押しながら、曾祖父・清左衛門は、妻・おますとともに汗を流していた。借りた土地を耕し宮水を運び、冬ごとに蓄えを重ねていった。
村人が夢物語と笑う中、彼は信念を胸に田畑を買い足し、やがて自作農となり四町歩の土地を持つ大地主へと成長した。農耕牛を使い、作男も雇い入れ、家は繁栄の頂点にあった。
清左衛門は誇ることなく「――土地は人を生かす」と次代に託したが、その繁栄の影には、すでに小さな綻びが忍び寄っていた。
第2話 父・鶴松の優しさと弱さ
<優しさと脆さ──人を思う心が家の繁栄を揺るがす影となる>
春の田畑に風が吹き抜ける中、父・鶴松は机に向かって筆を走らせていた。学問を好み、誰にでも優しい父は、家督を継いでもなお農作業より本に親しんでいた。
人の善い鶴松は、頼まれれば断れず、金を貸し、保証人にもなった。「人を助けるのは良いことだ」──そう信じる父の背中を見つめながら、幼い末娘・とくは胸の奥に小さな不安を覚えていた。
やがて、その優しさが家を傾けることになるとは、まだ誰も知らなかった。
第3話 幼い「とく」と家の転落
<没落の現実──豪農から納屋暮らしへ、幼き心に刻まれる影>
雨の夜、牛舎を兼ねた納屋の屋根から滴る雫を見上げながら、幼いとくは身をすくめていた。かつては蔵に米俵が積まれ、乳母日傘で育った日々があった。だが父・鶴松の失敗により、家は没落し、甑岩にある母の実家の粗末な納屋へと追われたのである。
牛の息づかいと藁の匂いに包まれた暮らしは、裕福だった記憶を遠ざけ、幼い心に「失われたもの」の影を刻んでいった。雨露をしのぐだけの生活の中で、とくは初めて、家の繁栄が過ぎ去ったことを知るのだった──。
第2部:働く少女
第4話 電話交換手としての第一歩
<労働の始まり──幼き肩に家計を背負い、少女は大黒柱となる>
十三歳の春、とくは粗末な納屋を出て、家計を支えるため逓信省の電話交換手として働き始めた。
背の高い交換台に届かず、家から持参した座布団を重ねて座り、必死にジャックへと手を伸ばす。ランプの点滅光に追われながら、資料箋を一枚一枚書き重ねる日々。
競い合う同僚の中で、とくは幼さを押し隠し、枚数を稼ぐことに全力を注いだ。
粗末な納屋暮らしから一転、電話線の向こうに広がる世界を感じながら、少女は一家の大黒柱としての第一歩を踏み出していった──。
第5話 戦争の影──父の自死と、兄の戦死、甥姪の養育
<喪失と責任──戦争の影が若き日々を塗り替えていく>
二十一歳の春、とくは父・鶴松の遺書を前に涙をこらえていた。「みんなに迷惑をかけた、すまない」──優しさゆえに家を傾けた父が、自らの命を絶ったのである。
追い打ちをかけるように、最愛の兄・武治の戦病死の知らせが届き、さらに義姉の急逝によって、幼い甥と姪を育てる責任がとくにのしかかった。
高収入な職を求め、とくは武田薬品へと転職、電話応対係として働き始める。
戦争の影が濃く覆う中、少女は急速に大人へと成長し、家族を支える覚悟を胸に刻んでいった──。
第6話 武田薬品での青春
<誇りと孤独──女性社員としての青春が心を鍛える>
逓信省で鍛えられた日々を経て、とくは武田薬品の電話応対として新しい職場に立った。工場の電話台に座り、会社を代表して応対する声は、まだ若い彼女の誇りそのものだった。人懐っこい性格は同僚や上司に信頼され、積み重ねた資料箋の束は、彼女の努力を静かに物語っていた。
けれども、女性社員はわずかで、孤独を抱えながらの職場でもあった。十時と三時に運ばれるお茶の湯気に、ほんのひとときの安らぎを見出す日々。
拡がる戦火と、机に積まれる紙片の重み──その狭間で、とくは自らの未来を模索し続けていた。
第3部:戦争と試練
第7話 森永製菓での空襲体験
<恐怖と決意──機銃掃射の空の下で、生き抜く覚悟が刻まれる>
食料品が不足してくると、とくは森永製菓の軍需工場に炊事婦として勤め始める。配給の途絶える日々の中、工場の食堂で大鍋をかき混ぜる手は、家族を守るための祈りにも似ていた。
だが、戦火は日常を容赦なく引き裂く。ある日、グラマンの機銃掃射が工場を襲い、屋根を突き抜けた弾丸が床を砕いた。破片に血を流す同僚の姿を目にしながら、とくは息を殺し、ただ生き延びることだけを願った──見上げた空には、操縦士の顔までもがはっきりと映り込んでいた。
恐怖と責任に押し潰されそうになりながらも、とくの心には「生き抜く」という決意が刻まれていった。
第8話 謎めいた結婚と離婚
<謎と再生──不可解な結びつきと別れが新たな歩みを導く>
一九四四年──戦火のただ中。
二十八歳になったとくは、和歌山の男性と突然の結婚を果たす。なぜその人を選んだのか? どんな経緯で結びついたのか? ──詳しいことは語られず、周囲にも説明されることのない結びつきだった。だが、幸福の日々は長くは続かず、病の影がとくに忍び寄り、やがて二人は離縁へと追い込まれていく。
余命六ヶ月を宣告され、甑岩に戻ったとくは、心静かに最後の日々を過ごそうと覚悟を固める。ところが、病は奇跡のように回復し、彼女はそれを阿弥陀如来と先祖の導きと信じた。
理由の見えない結婚と別れ──その不可解さは、とくの人生に消えない謎として刻まれながら、戦後の新たな歩みへと続いていく──。
第4部:再生と新たな家族
第9話 杉原庫蔵との再婚
<再生の誓い──大胆な申し出が新しい家族の始まりを告げる>
戦後の混乱の中、とくは甑岩での暮らしを終わらせようと、新たな道を探し始めていた。
食糧難の続く時代、買い出しの途中で「妻を求めている人はいないか」と尋ね歩き、やがて瓦宮の農夫・杉原庫蔵の名を知る。
妻を亡くし、家を支える手を必要としていた庫蔵のもとを訪れたとくは、ためらうことなく言葉を投げかけた──「私を奥さんにしてください。そして、このお金で今津に家を建ててください」
大胆な申し出は、やがて新しい生活の始まりとなった。粗末ながらも甑岩の納屋よりは格段に住みやすい家が建ち、母と甥姪を迎え入れることもできた。
過酷な農作業に身を投じながらも、とくは再び家族と共に生きる基盤を築いていった。
戦後の荒れ野に芽吹いた小さな家は、彼女にとって新たな希望の象徴となった──。
第10話 農業の過酷な日々
<忍耐と希望──荒れ野を耕し、家族の灯を守る>
新しい家を得て、母と甥姪を迎え入れたとくは、杉原庫蔵と共に農業に身を投じることになった。戦後の荒れ野に鍬を入れる日々は、想像を超える過酷さを伴っていた。
炎天下に汗を流し、荒れた土を耕し、わずかな実りに一喜一憂する。
それでも、囲炉裏に灯る火を囲み、笑いあうひとときは、家族の温もりを象徴していた。疲れ果てた体を横たえながらも、とくは家族と共に生きる基盤を築けたことに確かな充足を覚える。
農業の厳しさと家族の暮らしは、彼女に新たな忍耐と希望を刻み込み、戦後の再出発を支える力となっていく──。
第11話 子育てと友情
<母と友情──新しい命と絆が暮らしを支える光となる>
戦後の暮らしに根を下ろしたとくに、新しい命が宿った。娘・榮子の産声は、荒れ野に芽吹く若木のように、未来への希望を告げる響きだった。
産婦人科の白い廊下で出会った敏子は、同じように母となった女性。互いの不安や喜びを語り合ううちに、二人の間には静かな絆が育まれていった。夜泣きに悩むときも、家計の重さに押しつぶされそうなときも、敏子の言葉はとくの心を支える灯火となった。
農業の厳しさに耐えながらも、母としての喜びと友情の温もりが、彼女の暮らしを支え続ける。榮子の誕生と敏子との友情は、戦後の荒れ野に差し込む光となり、とくの人生に新しい章を刻んだ──。
第5部:介護と転機
第12話 農地改革と子どもたち
<制度と試練──農地改革と子の病が母の忍耐を試す>
戦後の農地改革で自作地と小作地が定められ、暮らしの基盤は揺れ動いた──。
そんな中で生まれた次男・正治は脳膜炎に倒れ、抗生物質の注射で命をつなぐ。続いて長男・進も肺炎に罹り、家計は重い出費に追われていく。
庫蔵は聡明で働き者ながら短気で、とくや子どもに厳しく当たることもあった。追い詰められたおとくは、栄子の手を引き、正治をおんぶして踏切に立ち尽くす。だが「帰ろー」という栄子の声に呼び戻され、再び生きる側へ歩みを続ける。
制度の変化と子どもたちの病──その重さは家族を揺さぶりながらも、とくに忍耐と希望を刻み込み、戦後の暮らしの輪郭を形づけていった──。
第13話 夫・庫蔵の脳卒中
<介護の始まり──倒れた夫を支える献身が絆を深める>
ある朝、土間に響いた音は、日常を断ち切る衝撃だった。夫・庫蔵が倒れ、動けなくなったのである。医療の手立てが乏しい時代、「絶対安静」しかないと告げられる中で、とくはただ見守ることを選ばなかった。
彼女は独自に工夫を重ね、手足をさすり、少しずつ動かすよう促した。やがて庫蔵は松葉杖を頼りに歩けるまでに回復する。献身の歳月は、夫婦の絆を深めると同時に、とく自身の生き方を大きく変えていった。
戦後の暮らしの中で、家族を守るための忍耐と工夫が、彼女の人生を次の転機へと導いていった──。
第14話 農業から貸家業へ
<転機と挑戦──土から事業へ、暮らしを支える新たな道>
肥料の失敗は、土に託した希望を一瞬で裏切り、暮らしの基盤は大きく揺らいだ。荒れた田畑に立ち尽くしたとくは、農業を断念し、貸家業へと舵を切る決意を固める。
銀行を巡り歩く日々は、冷たい視線と断りの言葉に満ちていた。それでも、とくの執念は揺るがない。やがて融資を勝ち取り、アパート建設の夢が現実の形を帯びていく。
土から事業へ──その転換は、戦後の暮らしに新しい可能性を開き、家族の未来を支える新たな道を刻むこととなった──。
第15話 モータープールの始まり
<挑戦と芽生え──村で初めての駐車場が時代の息吹を告げる>
貸家業の拡大に続いて、とくと庫蔵は新しい収入源を模索する。戦後の都市化の波の中で、街には車の姿が日に日に増えていく。その変化に目を留めた二人は、空き地を活用したモータープール(駐車場)を始める決断を下した。
資金繰りや整備に苦労は絶えなかったが、車が一台、また一台と並んでいく光景は、事業の芽が根付いていく証となった。
農業から貸家業、そしてモータープールへ──生活の基盤は少しずつ広がり、家族を支える新しい道が未来へと伸びていった。
第6部:事業の拡大と老い
第16話 新幹線用地買収と拡大
<成長と拡大──時代の波に乗り、家業は広がっていく>
高度成長の波が押し寄せ、街の姿は日ごとに変貌していった。新幹線建設のために土地が買収される知らせは、暮らしの基盤をまた大きく揺らすものだった。けれど、とくはその変化を恐れず、補償金を新たな事業へと注ぎ込む決断を下す。
貸家業はさらに広がり、モータープールに続く新しい建物が次々と形を帯びていく。鉄骨の影が伸び、窓から漏れる灯りと入居者の声が響くたびに、家業は時代の成長と歩調を合わせて拡大していった。
農業に見切りをつけ、都市の変化を受け止めた挑戦は、家族の暮らしを支える確かな柱となる。新幹線の轟音は、過ぎ去った土地の記憶を遠ざけながらも、未来へと続く道を告げる響きでもあった──。
第17話 家族の成長と進学
<教育と未来──母の忍耐が子の夢を支え、家族の明日を広げる>
子どもたちは次々と成長し、進学や就職の道を歩み始める。学費や生活費の負担は増すが、とくは「──教育こそ未来」と信じ、惜しみなく力を注ぎ続ける。
夜更けの帳簿に並ぶ数字は、母の忍耐の証であり、子どもたちの夢を支える礎でもあった。制服に袖を通す姿、通学路を歩む背中──その一つひとつが、家族の未来へと続く希望のかけらだった。
戦後の暮らしの中で、子どもたちの成長は母の努力と工夫の結晶となり、家族の物語に新しい章を刻んでいった──。
第7部:最期の光
第18話 庫蔵の再びの病と介護の日々
<夫婦の絆──病に寄り添い、介護の歳月が深めていく結びつき>
松葉杖で歩けるまでに回復した庫蔵も、やがて再び病に倒れる。静かな朝に響くうめき声は、家族の暮らしを再び揺さぶる合図となる。
事業と家事に追われながらも、とくは夫の介護を背負う日々へと身を投じていく。食事を整え、体を支え、夜半に寄り添う看病──その一つひとつが、忍耐と献身の証であった。
そして昭和56年、庫蔵は八十六歳でその生涯を閉じる。介護に明け暮れた26年間は、
家族の絆が試され、深められていく歳月でもあった。
第19話 事業の安定と母の老い
<安定と老い──成功の影に忍び寄る衰え、家族の支えに包まれた晩年>
貸家業やモータープールは軌道に乗り、家計は安定の色を帯びていった。入居者の笑い声や車の出入りが日常の風景となり、かつての不安定な暮らしは遠い記憶へと変わりつつあった。
六十五歳を迎えたとくは、借家の管理や掃除に励み、余暇には寺を巡って講話を聴き歩くほど元気だった。やがて六十九歳で胃がんに倒れるも、大阪大学での手術を経て回復をはたすと、以前よりも元気を取り戻し、旅行に出かける日々を楽しんでいた。
やがて九十歳を超えるころから記憶は少しずつ揺らぎ、とくにも老いの影が忍び寄る。発熱を繰り返し、九十三歳の正月には誤嚥性肺炎から食事ができなくなり、寝たきりの生活に。
訪問看護と家族の支えの中、とくは人生の終章を迎えていく──。
第20話 旅立ち──母の偉業と余韻
<旅立ちと余韻──96年の歩みを閉じ、なお家族を守り続ける母の存在>
2011年11月13日午前9時。おとくは、その波乱に満ちた長い人生を終えた──享年九十六歳。
──農業に始まり、貸家業やモータープールへと歩みを変えながら、家族を支え続けた母の一生。忍耐と工夫に満ちた日々は、戦後の暮らしの縮図でもあり、子どもたちの未来を形づくる礎となった。
過ぎ去った日々を振り返れば、そこには幾度もの試練と再生があった。雨漏りの納屋で過ごした幼き日、戦火にさらされた青春、そして夫の病に寄り添った介護の歳月──そのすべてが、母の人生をひとつの物語へと結晶させていった。
やがて老いの影が濃くなる中でも、母の眼差しは子どもたちの行く末を静かに見守り続ける。彼女の歩みは、家族の記憶の中に余韻となって残り、未来へと受け継がれていく。
母の一生は、ただ一人の女性の物語にとどまらず、時代を生き抜いた人々の姿を映し出す鏡でもあった──。
了