ロフト付きはおもしろい

ロフト大好きの71歳の老人の日記です

4月3日の思い出(再掲です)

私が子供の時に育ち今も住んでいる村は
昭和34年ごろまで
本当に貧乏な寒村でした。

そんな寒村では
年中行事も
経費の面から
いろんなことをできません。

節分・端午の節句・菊の節句・七五参
そのような行事はしたことがありません。
学校では文部省唱歌「鯉のぼりの歌」を
歌ったことはありますが
私の村では一軒の商家を除き無縁でした。

しかしそんな村にも
年中行事はあって
正月とお盆
収穫後の神社の秋祭り
それに大人たちのくつろぎの「伊勢講」です。

正月は前にも言ったように
元日は寝正月
二日目はお年賀
3日目間何もせず
4日目からお仕事です。

盆は
これといった休日ではなく
お寺さんに参ってもらう程度
特に休むということはありません。

神社のお祭りは
関わりのある人は
前日の夜と祭りの日のみ仕事は休み
その他の人はその時のみ休みです。

「伊勢講」は
おかげ参りから派生したものですが
春と秋に
その年の当番のところに集まって
宴席です。
もちろんその時までは仕事です。

すなわち仕事の合間に
行事といったほうがいいと思うくらい
仕事でした。

皆様誤解があっては困るのであえて書きますが
日曜日祝日などでも
もちろん仕事です。

大人たちはこんな風に
仕事に明け暮れていましたから
子供は
どこかに連れて行ってもらえるとか
遊んでもらえるとか言うことは
まずありません。

子供だけで
遊ぶしかなかったと思います。

そんな寒村にも
子供が楽しめる日があります。

それは
「お花見のようなもの」と
「お月見」です。



子供達だけでするお花見は
もちろん大人の協力があってのことですが
楽しい限りです。

素朴なそんな「お花見のようなもの」は
私の村では
「弁当節句」と呼ばれていました。

普通は
月遅れの桃の節句
4月の3日に行われます。

皆様は御存じない方も多いので
想像ができないかもしれませんが
想像をたくましくして
弁当節句の楽しさを共感していただきたいと思います。

以下は物語ですが、
当時をうまく再現できていればいいのですが、、、
(文中弟は私です。
伏字になっているのは実在のものです。)


明日は
4月の3日
ゆったりと藻川が流れる寒村にも
春の息吹がどことなく聞こえてきます。

遠くには
田起こしをするために
牛を使って鋤を引っ張っている
村人も
春霞の中に見られます。

母親は
橋を越えて住宅にある市場まで
明日の用意のために
海苔とカンピョウ・高野豆腐を買ってきました。

子供は
小学校4年の姉と1年生の男の子です。
姉は弟に
「明日は弁当節句だよ
賢くしていないと
「けと」(短気の方言)のお父さんが
『やめておけ』というかもしれないから
明日の朝出かけるまでは
静かにするんだよ。
そうしたら
明日は楽しい弁当節句なんだから

みっちゃんやよしおくんら皆と
行けるからね
静かにするんだよ」と
言って聞かせました。

弟は
いつもにも増して
父親の前では
賢く振舞うように心がけました。

ご飯を食べる時も
お膳の前に正座して座って
背筋を伸ばして
「いただきます」と言ったきり
静かに食べました。

弟は
明日のことが待ち遠しくて
はしゃぎたくなる気持ちを
ぐっと押さえていました。

無言の食事が終わって
お膳を各自が片付け
棚に仕舞った後も
弟は
ジッと座っていました。

横になったりあくびでもしようものなら
父親の一喝があるからです。


食後のラジオがつけられると
少しだけ
楽にできますが
無駄口を言って
父親の機嫌を損ねたらいけないので
ジッと座ったままでした。

時間が来て
母親に寝るように言われると
寝巻きに着替えて
父親と母親の前に座って
「お父ちゃんお母ちゃんおやすみなさい」と
手を付いて挨拶した後
布団の中に入りました。

わくわくした気持ちが
ありましたが
直ぐに眠りについてしまいました。

そのあと
母親は
麦とお米を洗って
鍋に仕掛けました。



翌日ご飯を炊く音で目が覚めた
弟は
服を着替えて
母親に
「お早うございます」と挨拶しました。

姉は固い雨戸を
開け始めました。
弟も行って手伝いました。


そのあと
土間の流しのところで
金タライに水を汲んでもらって
口をすすいで
顔を洗いました。

自分の手ぬぐいで顔を拭いて
台所まで帰ってくると
朝の間の仕事をして帰ってきた
父親に
「お早うございます」と挨拶しました。

父親が
足や手を洗っている間に
姉はお膳を並べ
母親はヘッツイさんから
釜を持ってきました。
お味噌汁と
お漬物が並べられました。

弟は
お膳の前に座って
父親を待ちました。

父親が座ると
家族全員で「いただきます」と
合掌してから
食べ始めました。

いつものように
背筋を伸ばして
食べていた弟ですが
少し足がしびれて
姿勢が崩れると
父親の鋭い眼光が光りました。

慌てて弟は
姿勢を正して
事なきを得ました。

それを見ていた姉は
ハッとした様子でした。

「ごちそうさま」の唱和のあと
父親の「作業」と言う声と共に
立ち上がり
父親は
仕事に出かけて行きました。

姉と弟は
お膳を片付けました。

こんどは、
母親は、白米だけを仕掛けました。

そのあと
カンピョウと高野豆腐を
水につけました。

鳥小屋から
卵を持ってきて
卵を割って
かき混ぜ
卵焼きを作り始めました。

卵焼きのいい香りが
家にただよいます。

鶏を飼っていて
毎日卵を産みますが
卵焼きを食べるのは
正月以来でしょうか。

弟は
台所で
母親の仕事を
見ていました。

卵焼きを
水屋に仕舞ったあと
母親は農作業に出かけていきました。

弟は水屋の中の
卵焼きを
しげしげと見ていましたが
手を付けることはありませんでした。

姉と弟は
昼までの辛抱と我慢しながら
家で遊んでいました。


昼の11時を少し回ったころ
急ぎ足で母親は帰ってきました。
手を洗う前に
母親は
ヘッツイさんに
火を入れてご飯を炊き始めました。

白いご飯だけの香りは
麦ご飯の臭いとは
全く違ういい香りです。

弟は
もうわくわくして
思わず叫びそうになるくらいでした。

母親は
火をくべながら
手を洗い
カンピョウと高野豆腐に味をつけて炊きました。

卵を帯状に切って
皿に並べました。

カンピョウは高野豆腐も切って
並べました。

生姜を漬けた
壷から
生姜を取り出し
切りました。

ご飯も音がして
炊けたの
少し蒸らした後
木の桶に入れて
酢と砂糖を混ぜたものを切るように混ぜました。

姉が呼ばれて
うちわで扇いで冷ましました。

母親は手際よく
海苔を敷きご飯を均等に並べて
その上に卵とカンピョウ・高野豆腐・生姜を上におき
巻いていきました。

20本近く巻いて
そのあと
水をつけた
包丁で切り始めました。
それを
まず皿の上に
切り口が上になるように
丸く並べ
二段三段とと積み重ねていきました。

皿に載せたのは
父親の分です。

もう一皿
母親の分を並べ
そのあと
洗った重箱のに
今度は横に並べました。  

重箱に
綺麗に巻き寿司が並ぶと
姉は
待っていたかのように
蓋をして
風呂敷に包みました。

姉と弟は
下駄を履いて
「行ってきます」と母親に言って
風呂敷に包んだ重箱を持って
家を出ました。

弟は
重箱を持ちたいと言いましたが
落としては大変なので
姉が持っていました。

その代わり
弟は
門(かど)にあった
ござを持って
家を出発しました。


弟が大き目のござを持って
姉が風呂敷に包んだ重箱を持って
まず近所の家に向かいました。

そこの家には
数人の友達が集まっていて
皆で連れもって行くことになりました。

村の中を通る
有馬道を外れ
春の草が
わずかに生えた
野道を
北に向かいました。
小川のせせらぎが流れていました。

遠くには六甲の山々が
春霞の中見えました。
風もない穏やかな天気で
今日の弁当節句には
格好の日和でした。

年に一度の
子供の楽しみの日になる予感がしました。

弟はうきうきした
気分で大きなござをもって
姉の後ろを
ゆっくりと歩いていました。

空にはところどころ
「ぴーちく ぱーちく」とヒバリが鳴いていました。

ヒバリは空の同じところでずーと鳴いていて
弟はその下にでも巣があるのかと思って
探しましたが
いつも見つけられませんでした。

姉やもう一人の大きなお姉さんが
「ここにしましょう」と
声をかけました。

弟は待ちに待った時がきたと思いました。
そこは
小高くなっていて
小さな梅の木があって
梅の花はもうすでに終わっていましたが
少し出た葉っぱが
青々と春を感じさせました。

弟はござを敷いて
下駄を脱いで
その上に上がりました。
姉もその上に風呂敷をおいて
開けました。

弟に
こぼさないようにと言って
弟の前に弟の重箱を置きました。
弟はそんなこぼすような
へまなまねはしないと
心の中で思いつつ
眼をキラキラ輝かせて
ふたを開けました。

姉自分の分の重箱を取り出し
前に起きました。

皆はおもいおもいの方向を見て
「いただきます」と言って食べ始めました。

遠くの山々
山まで続く田んぼ
ところどころの家々・鎮守の森
近くには小川
空には白い雲
そして
ヒバリの鳴き声
こんな中で食べる
三ヶ月ぶりの白いご飯の巻き寿司が
美味しくないはずはありません。

今なら
山紫水明
山青くして水あくまでも清い
と表現でもするのでしょうが
当時は全くそんな言葉を知らない弟は
ただただ
楽しくて
嬉しいと思いました。

弟に限らず皆は
一口で
お寿司を食べると言うことはなく
少しずつ
箸でつまみながら
食べました。


巻き寿司を
ふたつほど食べたら
大きいお姉ちゃんが
「じゃ次のところに行きましょう」
と声をかけます。


弟は
その声で
箸をおき重箱のふたを閉めます。

姉は風呂敷に重箱を包み
弟はござをくるっと丸めました。

姉と大きいお姉ちゃんの先導で
田んぼの畦を西に向かいます。

今度は隣村の神社に向かいます。

お昼を告げる
各村々のサイレンが
鳴り響きました。

のら仕事をしているお百姓さんたちは
仕事の手を止め
昼ごはんに帰り始めました。

知り合いの村人と
お姉ちゃん達は
挨拶をして
ゆっくりと鎮守の森に着きました。

そこには
大きな木が何本もあって
夏には
森になってしまいますが
まだ春先の
今は
新芽を出している木も
少なく
日が差し込みました。

その場所で今度は
丸くござを引いて
向かい合って座りました。

平素おしゃべりして
食事をしたことがない
子供達でしたが
その日は大人もいないので
「今度はあの木に登って遊ぼう」
とか
「お人形さんを買ってもらった」
とか
話しながらゆっくりとお寿司を食べました。

弟も
姉達の話を聞きながら
おしゃべりしながら
食べるのも良いものだと思いました。

お寿司をまたふたつ食べました。
お姉ちゃんは
話に夢中で
まだまだ時間はありましたが
全部食べては
もったいない気がして
箸をおいて待っていました。

ひとしきり話した後
「じゃ次のところに行きましょう」と声が上がりました。

弟は同じようにござを丸めて
準備をしました。

「今度は、○○さんちに行きましょう。
あそこの桜はとても綺麗だから」
と言いました。

田んぼの畦を
ゆっくりと歩いて
行きました。

太陽は春霞で
穏やかに輝き
気持ちが本当にいい日でした。


穏やかな陽光の中
○○さんの家に着きました。

○○さんは、農地改革があるまで
付近の村々に
田んぼを持っている
有名な大地主で
その家は
後に文化財に指定されるような
お家に住んでいました。

その家の庭には
当時は珍しい桜の木があって
ひときわ目立っていました。


その木が見える畦に
今度は一列に並んで
ござを広げて
食べ始めました。

弟は少し坂になった
ござの上で
重箱が転げ落ちて
お寿司が食べられなくなるのを
心配しながら
食べました。

同じように
弟は
お寿司をふたつ桜を見ながら食べました。

その場で少しジッとしていたので
弟は
眠たくなりました。

姉に重箱を返して
弟はござの上で
横になって
空を見ました。

平素なら
食べた後
直ぐ寝ようものなら
「牛になるぞ」と
父親の一喝があるのですが
今日はそのようなことはありません。

空の雲を見ながら
楽しい気分に浸っていると
寝てしまいました。

どれくらい寝たのかわかりませんが
「行きましょう」の声で起こされて
眼をふきふきしながら
ござを丸めました。

「今度は線路の桜を見ましょう」と
大きいお姉ちゃんが言い出しました。

弟の住んでいた村の真ん中を
阪急電車が通っていたのです。
阪急電車は
線路沿いに
桜の木を何本も
植えていました。
それは桜の帯になっていたのです。

弟の家は
線路のそばにありましたから
その桜は
毎日のように見ていました。

子供達の一行は
藻川の堤防の上の
線路の桜と
藻川の流れが見える場所に
ござをおもいおもいに敷きました。

太陽が西に寄って来たので
眩しかったこともあり
弟は藻川が見える
東向きに敷きました。


同じように重箱のふたを開け
4度目になって
もう残り少なくなったお寿司を
懐かしむように
もっとゆっくりと食べました。

一口食べては
遠くの生駒の山々を
もう一口食べては
春霞にシルエットだけの大阪城を
それから
ゆったり流れる藻川を
みながら
味わって食べました。

友達の中には
全部食べてしまった子らがいて
走り回って遊んでいる者もいました。

弟は
そんな子を
横目で見ながら
「おいしいものはゆっくりと味わわないと
もったいない」と
思いながら食べました。

どんなにゆっくり食べていても
食べたらなくなってしまうのは当然ですが
弟の重箱も
すべてなくなってしまいました。
重箱の壁についた
海苔のかけらも
箸で丹念に取って食べてしまいました。

姉に重箱を渡し
弟は
満ち足りた気分になりました。

弟はこの幸せが
ずーと続くと
思うほど幸せな気分でした。

他の子供のように走り回ることもなく
辺りを見回しました。

藻川の堤防は
最近大改修があって
綺麗な
台形の形になっていました。
川の流れは
ところどころに瀬ができており
その間は
ゆったりと流れていました。

遠くからでも
川の中に魚の
黒い影が
行ったり来たりしているのが
見られました。

弟が座っているところから
少しはなれたところに
橋がありました。

橋は真ん中だけがアーチ型の鉄橋になっていて
両端は木の橋でかけられていました。

すべて鉄橋だったんですが
戦後間もないころ
台風の大水で
両端が流されて
木の仮設橋になっていたのです。

そんな橋を見ながら
また弟はうとうとしてしまいました。


何時間寝ていたのかわかりませんが
夕日が六甲の方角に
なった時
姉は弟を起こして
家に帰るようにいいました。

弟は
ござを丸めて
家に帰りました。

家に帰ると
母親が帰ってきて
「今日はお風呂をたてるから
水を汲んできなさい」と
言われました。

姉と弟は
近くの小川から
バケツで水を汲んでは
お風呂桶に
入れました。

姉は大きな金バケツ
弟は小さな木桶で運びました。

何度も往復して
やっと一杯になったころには
西の空は
真っ赤に染まって
六甲の山の稜線だけが
見えました。

母親が
わらに火をつけて
風呂の焚口に
入れました。

そのあと姉は
わらを丸めては投げ込む係
弟は少し離れたわらの倉庫から
わらを運ぶ係になりました。

とっぷり暗くなったころ
父親が帰ってきました。

「おかえりなさい」と
言って
今日は笑顔で
弟は父親お迎えました。

父親は服を抜いて
先に風呂に入り
そのあと
姉と弟も風呂に入りました。

弟は
疲れましたが
きっちり座って
ご飯を食べました。

眠たいのがわかったのでしょうか
母親は
弟に「今日はもう寝ましょう」と声をかけました。

弟は急いで
寝巻きに着替え
座って挨拶をして
お布団の中に
もぐりこみました。

直ぐに寝入ってしまいました。

楽しい弁当節句の夢でも
見ているのでしょうか
寝顔は笑っているように
姉には見えました。






これで
お花見とお月見終わります。

お月見については
またそのころ
覚えていましたら
書いてみます。

昭和30年ごろの
風景が
頭の中に
浮かんできましたでしょうか。

私は
昨日のことのように
懐かしく思います。

その時怖かった
父親は今はいません。

母親も
96歳でこの世を去りました。

数々の幸せをもたらしてくれた
母親には感謝しておりますが
その恩返しができていません。
親不孝な私です。

「親の恩は返せるようなものではなく
噛みしめるもの」という
ご住職さんの言葉に
助けられている毎日です。

ごめんなさい。