今日は、終戦記念日です。
敗戦記念日と言わないのは、なぜなんでしょうか。
そのことは置いておき、
我が家の戦争による損害について今日は、お話しします。
父は、日華事変の時にすでに40歳を超えており、
兵役には、行っておりません。
私の父方の従兄は、従軍し辛くも南方より生還してきました。
また母方の伯父の内長兄は、ルソン島で戦病死しました。
次兄は、台湾で軍属として従軍しましたが帰って参りました。
また我が家は、田舎にありましたが、
近くに陸軍衛生材料廠があり、
そこへ落とす焼夷弾が当たり炎上しました。
父と兄は、近くの竹藪に逃げ込んでいたそうです。
焼夷弾は、B29より落とされ、
空中でたくさんにバラバラになります。
それぞれには、コンクリートのおもりがついており、
その重さで屋根を突き破り家の中に入ってきます。
落ちると同時に、真っ赤な炎が燃え上がります。
直ぐに消えますが、他の物に延焼し、
家を焼いてしまいます。
私の村では、大方の家は、焼夷弾によって焼かれてしまいました。
一軒だけ焼夷弾が3発家の中に落ちたにもかかわらず、
消し止め燃えなかった家があったそうです。
消したのは、気丈な女性であったと聞いています。
父は、焼けた家に呆然としたそうですが、
当分燃えなかった納屋で暮らし、
伊丹の建物疎開の木材で
我が家を自力で再建したそうです。
これが前に述べました、雨漏りがして、床下浸水する家です。
国際法に従えば、
軍用施設以外の民間施設(我が家)を
爆撃し、焼失することは、許されていません。
私は、アメリカ軍に対して、
戦時補償をしてもらう権利があると思います。
皆さんの中にも
戦争による被害がある方がおられるでしょうね。