私にとって 偉大な指導者 偉大な恩人 そして偉大な母親が 今日昇天致しました。 生前のご厚情に 厚く御礼申し上げます。 母は 大正5年に 裕福な家に生まれたのにもかかわらず 父親の散財のため 数え歳13歳(満年齢で12歳)で 逓信省(今のNTT)に通信書記(電話交換手)として奉職します。 成人した母は6尺(182cm)もある長身ですが 13歳の時はまだ背が低く椅子の上に台を置いて 座って電話交換業務をおこなったそうです。 数年の後 今の和光純薬(武田薬品)に電話交換手として社員待遇で 勤めを変えました。 戦争中は アメリカ軍の戦闘機からの 機銃掃射の雨の中をくぐり抜け 戦後は 老いた母親と姪と甥をを世話をしながら 食糧難を切り抜けました。 結婚すると きつい農作業に従事して働き 夫が半身不随になると その看護・今で言うリハビリ・農業・家事・ふたりの子供の育児をすべて やってのけます。 50歳になって 不動産業を創業し 大きな財産をこしらえます。 大正・昭和・平成を 一気に駆け抜け 20世紀の変動する荒波を 乗り越えてきた 母は 今日その歴史を 今閉じました。 人生の 終焉に際しても こんな風に 生きるのだと言わんばかりの 23ヶ月にも上る 闘病生活をしました。 こんな偉大な 母親の子供として 私は生まれたにもかかわらず その恩に全く報いることもなく ただただ見守るだけに終始した私は きっと責められるのが当然と思います。 大恩ある 母に殉じて 死を選ぶのが筋ではないかと思いますが 母が最期に そのつらい闘病生活で示した 「力強く生きるのだ」を 遺言として 私は この世界で もう少し 母の偉業を 継ぎたいと思います。 あと何年・あるいは 何ヶ月かわかりませんが 浄土で会ったときに すこしは 褒められるように 今後ともがんばっていきたいともいます。 「お母ちゃん 少し待って下さい。 あの世でも 親子でありますように 、、、、、、」 皆様も 温かい目で 私を見守って頂きたく 伏してお願い申し上げます。 著者敬白