昭和35年頃の小学校の続き
小学校について相当何回も話題にしていますが、
今日は、花壇についてお話ししたいと思います。
私の行っていた学校の敷地の中に
水路(農業用水路)が通っていました。
水路は、いずれお話ししますが、
歴史的に有名な大井組(おおゆぐみ)の幹線水路です。
常に藻川の水が当時は、さらさらと流れ、
もちろん小魚も泳いでいました。
話は、脱線しますが、北校舎の西側の入り口を出ると、
直ぐにこの水路があり、落ちそうになります。
事実何人かは、ここから落ちました。
私は、ここからは、落ちていません。
話を元に戻して、
その水路の西側の一帯が花壇の領域です。
広さは、今見るとたぶん300坪ぐらいあります。
私が行った当時は、そこは、花壇と言っても荒れ地で、
何も作られておらず、
時々小学生が当番で草引きをしていました。
また罰で草引きをしたこともあります。
この花壇は、話によると
戦時中・戦後30年頃まで
菜園として、サツマイモが作られていたそうです。
食糧難で困っていたんですね。
もっと言えば、運動場や中運動場・北運動場も
サツマイモが作られた時期があったそうです。
花壇ならサツマイモを作りやすいけど
運動場にサツマイモを作るのは、相当困難であったと思います。
(兄は、運動場を耕したと言っていました)
皆さんのいった学校にもそんな花壇=菜園ありましたか。
あったかもしれませんよね。