ロフト付きはおもしろい

ロフト大好きの68歳の老人の日記です

短編ブログ小説「遊び人真一」その30

1


「投資家の人生は闇の中にある」と
思うのですが
生まれたばかりの
真一には
そんなこともわかりませんでした。

真一は
大阪で
生まれました。

父親は
超有名な弁護士で
美人の母親
優しい祖父母
の家族です。

父親は
大手会社の
顧問弁護士をしていて
はっきり言って
お金持ちです。

昭和30年に生まれて
贅沢はしませんでしたが
不自由な生活はありませんでいた。

ひとり息子ですので
家族の
期待を受けていました。

父親は
弁護士になって欲しいと
思っていました。

それに対して
母親は
健康であったら
良いという考えでした。

意見の衝突はありませんが
真一は
大きな期待をする父親と
違う期待をする母親の
顔色をうかがいながら
育ちました。

小学校の時から
家庭教師に
鍛えられながら
育ちましたが
小学校では
目立たない子供でした。

2

真一の母親は
父親以上に
大金持ちの家から
嫁いできていました。

女中(今の言葉で言えばお手伝いさん)が
十人近くいて
結婚するまで
食事の用意など
したことがありませんでした。

母親は父親と
結婚してから
食事の用意を
はじめたのです。

はじめは
さんざんでしたが
特に大きな問題は
ありませんでした。

父親の一家は
温かい目で
みていてくれたのです。

母親の実家の
影響力が
あまりにも大きいので
そのようなことを
言える立場ではなかったかもしれませんが
母親の
相次いでの愚行は
すべて
なかったものになっていました。

最初は
母親は
今で言う
「天然」ですが
数ヶ月が過ぎると
もうそうのようなことは
起きなくなりました。

芯は
賢明な女性だったのかも知れません。

父親は
国民学校の時から
学校一の
秀才でした。

戦況が
悪化した頃
帝国大学に
進学して
一級先の
先輩が
学徒動員で
戦地に出かける羽目になっていた頃
父親は
砲兵工廠に
勤労奉仕で働いていました。

終戦の日に
大空襲があったときには
一瞬の差で
防空壕に飛び込み
助かりました。

戦争が終わると
今まで
勤労奉仕のために
勉強をできない分を
取り戻すように
勉強に明け暮れました。





3

父親の実家は
戦争の時は
軍需工場の指定を受けていましたが
戦争が終わると
休業の憂き目をみます。

学費だけは
何とか
工面できましたが
早く何とかしたいと思って
司法試験を受験して
合格したのです。

あと一年を残して
大学を中退して
給料の出る
司法修習生になりました。

司法修習は
2年間で
その間も
勉強しました。

給料の大方は
実家に送って
勉強だけしていました。

その甲斐あって
一番で
修了して
裁判官になりました。

戦後の
動乱期が終わりつつあった頃
家業は
また盛り返しました。

昭和25年に
結婚を機に
退職して
弁護士になりました。

真一の母親の実家の
おかげもあって
大企業の
顧問弁護士になりました。

真一が
生まれた
28年頃には
家業も
弁護士業も
繁忙を極めるまでになっていたのです。

貧しさを経験して
努力で
盛り返した
父親と
生まれた時から
裕福で
どんなことでも叶った
母親の間で
一人っ子として
真一は育ちます。

父親の真一に対する目標は
質実剛健
母親のそれは
優しさ
同じようで
同じでない
この違いが
真一に
影響を与えました。


4

小学校では
ほどほどの秀才として
通っていて
父母とも
満足していました。

中学生に入る時に
父親の父母
真一のおじいさんとお祖母さんが
相次いでなくなりました。

おじいさんは
肺炎
お祖母さんは
心臓疾患です。

それまで
元気で
風邪もひいたことがなく
スペイン風邪の時でさえ
二人とも
病気にならなかったくらいです。

それで
真一の家には
体温計すらなく
熱を測る習慣もなく
少しからだがしんどい時には
お風呂に入って寝れば治るというのが
家訓のようなものでした。

おじいさんの肺炎は
おじいさんや
その家族が
病気だと言うことを
気が付いた時には
手遅れだったのです。

お祖母さんの
心臓疾患も
医者に言わせれば
「もっと早く
来てくれたら
たすかったのに」と
言われたくらいです。

おじいさんとお祖母さんが亡くなると
父親は
次は
自分だと言うことで
死んだ時の用意を
はじめたのです。


5

真一の父親は
まだ40才になったばかりなのに
死ぬ時のことを
考えました。

祖父母の
相続で
相当
困ったことが起こったのです。

もちろん
両親の
相次いでの死亡は
精神的に
大打撃なのですが
そのこと以外にも
ありました。

相続財産は
不動産が主で
すぐに換金できないにもかかわらず
大きな
相続税が
課税されたのです。

手持ちの現金を
何とか工面して
やっとこさ払ったのです。

自分の時には
そんなことを
させてはならないと
父親は
思ったのです。

父親は
弁護士ですので
知り合いの
税理士などに相談しました。

そうして
父親は
相続対策を
することになります。

事務的に
やっていました。

事務的な
父親に対して
祖父母が
相次いで
亡くなって
真一は
不安になっていました。

祖父母に
大変可愛がられていて
人生についても
教えられていました。



6

意見の違う
父親と
母親の
間に入って
祖父母は
真一の味方でした。

祖父母は
「人生は
楽しむべきだ」という
人生訓の持ち主で
いつも
真一の
両親に
意見を言っていました。

真一も
いつも
仕事の父親や
みんなのために
おおらかに働く母親よりも
人生は楽しむべきだと言って
仕事を一瞬の如く終えて
自分の楽しむことをしている
仲の良い祖父母に
憧れました。

その祖父母が
急に
仲良く亡くなって
頼るものがなくなって
虚しく感じていました。

それに追い打ちをかけたように
中学校になって
成績が
さっぱりなのです。

三つの
小学校から
集まった中学生の中には
真一より
優秀な
生徒がゴロゴロいて
真一は
成績が下がったようになってしまったのです。

父親は
叱咤激励しました。

家庭教師も
もうひとり付いて
表向きは
頑張ることになりました。

7

家庭教師が
なんにん付こうが
真一が頑張らないと
成績が上がるわけがありません。

父親は
いらだちました。

母親に
勉強しているかどうか
監視するように
言いましたが
母親は
いたって無頓着です。

勉強をしたかどうか
父親は
母親に聞きます、
母親は
「息子を信じなさい」と
答えて
言い争いになります。

それを聞いた
真一は
肩身が狭く
部屋に閉じこもります。

父親は
家庭教師を変えたり
塾に行かしたり
学校にも相談したり
いろんな努力をしました。

でも
忙しい
父親は
父親自身が
勉強にかかわることは
ありませんでした。

残念ながら
父親の努力は
徒労に終わるべきして
終わりました。

父親が
あまり言わなくなると
かえって
真一は
不安になります。

そんなことが続くと
すっかり自信がなくなって
余計に
成績が下がってしまいます。


8

成績が下がると
真一も
不安になります。

小学校の時は
よかったので
「悪い評価を受けたこと」
がなかった真一は
うろたえてしまうのです。

成績は
悪いよりは
よいのに超したことがないと
もちろん真一は
考えていました。

そこで
勉強しました。

父親に言わせれば
4人の祖父母や
両親の遺伝子は
良いに決まっているので
真一の成績が
上がるのは
当たり前だと
真一は聞いていました。

やればできると
真一は
やっていたのです。

中学校を卒業し
公立の進学校に
入学しました。

頑張っている
真一は
秀才の集まる
進学校では
凡庸な成績になってしまいました。

もうその頃には
父親は
弁護士事務所の
跡継ぎには
真一は
無理だと決めてかかっていました。

父親は
息子の将来に
不安を持っていて
「やはり
財産を残しておかないと」と
思ったのです。

真一の父親は
当時既に
大金持ちで
十分な蓄えがありましたが
もっともっと
蓄えておこうと
思いました。

9

高校での成績は
真一に言わせると
精一杯していて
運も手伝って
よかったと
思いました。

これなら
父親が
絶対条件にしている
旧帝大に
受かるかも知れないと
思うほどになりました。

しかし
そんなことは
父親には
言いませんでした。

黙って
九州の
旧帝大を
受験しました。

法学部は
難しいので
文学部に
願書を提出しました。

父親は
旧帝大は
受けないと思っていたのか
無関心を
装っていました。

受験の前日
「ちょっと行ってくる」と
母親に言って
家を出ました。

まだ
山陽新幹線が
開通していていなかった頃でしたから
特急で
前日に出かけたのです。

当日は
寒い日でしたが
真一は
窓際の
暖かい席でした。

運が味方したのか
発表の日の夜更けに
書留速達で合格証と
書類が送られてきました。

父親が
チャイムの音で
受け取りました。

父親の
呼ぶ声で
真一と母親は集まり
開封して
合格を知りました。

両親は
大いに喜んでくれました。

法学部でなかったので
おそるおそるでしたが
真一は
ホッとしました。


10

一応
旧帝大に合格して
父親は
誉めてくれました。

大阪から
離れて
九州に
住まなければならないことになるので
母親は
心配していました。

翌日
合格祝いに
時計を
父親は買ってきました。

母親は
自慢の赤飯を
作って
祝ってくれました。

入学手続きが済むと
両親と真一は
新しい
住まいを
二日がかりで
捜して
決めました。

新しい住まいは
18才の学生には
だいぶ贅沢なもので
警察署の前の
マンションでした。

大学からは
離れていて
友達が
たむろするようなことがない所でした。

真一は
両親から
離れての生活が
少し心配でしたが
圧迫感のある
両親から
離れるのが
よかったと
思いました。

桜が満開の時期
入学式が終わって
両親が帰ると
ひとりの生活が
始まりました。




11

ひとりの生活は
最初は
憧れていました。

一日経って
すぐにわかりました。

一人暮らしは
大変なことが
わかりました。

料理に限らず
お風呂に入ることさえ
大変なことが分かったのです。

登が
一人暮らしを
はじめたことには
コンビニもないし
夜はお店も閉まっているし
お風呂も
自動で沸かしてくれないし
現在よりも
大変だったのです。

何とか
食べて
お風呂に入って
寝て
洗濯して
そして
学校に行って
勉強して
生活をしていました。

1ヶ月くらい経つと
母親が生活を
見に来てくれました。

何とか
生活しているみたいなので
安心したのか
帰って行きました。

それから
4年間
続きました。

夏休み冬休み春休みには
もちろん
家に帰りました。

帰ったら
両親は
本当に笑顔で
迎えてくれました。

12

4年生になると
山陽新幹線が開通して
便利になりました。

夏前から
真一は
就職活動を
はじめました。

当時は
会社訪問すると
日当が支給されたりして
それが
お小遣いになるので
真一は
おもしろがって
会社訪問をしました。

遠くは
仙台
東京にも何回も行きました。

もちろん地元の
大阪や
福岡でも
就職活動を続けました。

最初は
楽しくしていたのですが
内定を
もらえないことが続くと
段々落ち込んでいきました。

父親は
母親から
就職活動を
詳しく知っていましたが
手助けすることは
控えていました。

父親の
コネを使えば
内定も
簡単にもらえると
父子ともに
思っはいましたが
それを使うことは
しませんでした。

寒くなってきた頃
真一は
なんとか
一部上場の
建設会社に
就職が内定しました。

真一は
ホッとしました。

両親も
それ以上に
ホッとしました。


13

文学部出身なのに
建設会社は
合わないとは
みんなは思いもしませんでした。

真一が
なぜ建設会社を
志望したのも
真一自身も
はっきりとはわかりませんでした。

たくさん受験していたので
その中のひとつに
なってしまっていたのです。

建設会社だからと言って
建築に関係ある部署ばかりではないので
そんなところの部署に
採用されたと
真一は思っていました。

真一は
意気揚々と
その会社に
入社して
営業部門を皮切りに
人事・総務と
渡っていきます。

その間に
真一は
結婚します。

真一は
女性の前では
声が出ませんでした。

そんな真一が
結婚相手を
自身で見つけることは
大変困難と
思っていました。

しかし
近所の人の
べーべーキューの
集まりで
紹介してくれて
付き合うようになりました。

プロポーズもせずに
何となく
結婚に
ゴールインしました。

真一は
結婚は
運命だと思ってしまったのです。

大学もうまく合格して
就職のうまくできて
結婚相手もうまく見つかって
真一は
運があると
思ってしまいました。


14

真一は
旅行が大好きです。

九州に来て
ひとりぐらしが
始まった頃から
親の仕送りを
貯めて
旅行に行っていました。

夏休みの間は
旅行に明け暮れたといっても
過言ではありません。

当時としては
珍しい
海外旅行も
行きました。

円が
1ドル360円の頃ですので
相当貯めたのです。

卒業の時には
「もう長い旅行は無理」だからと言って
アメリカ横断旅行に出かけたこともありました。

建設会社に入社しても
やっぱり
休暇をとって
旅行には出かけました。

結婚した時は
新婚旅行に
ハワイに行きました。

子供が生まれた後も
家族3人で
国内旅行をはじめ
オーストラリアやニージーランドに
出かけました。

費用は
お給料の大方を
使ってしまいました。

足らないところは
父親から
もらいました。

会社に勤めて
12年
結婚してから8年
経った時に
母親が
乳がんになってしまいました。

何度も
見舞いに
実家に帰りました。





15

母の乳癌は
相当悪く
摘出手術を行えない状態でした。

いくつかの抗がん剤放射線治療を
していました。

最初の内は
体力もあって
母は
余裕のようでしたが
日に日に弱ってきて
あっという間に
あの元気だった真一の母親は
亡くなってしまいました。

真一は
母親が
もちろん好きでした。

真一のことを
信じていたと
思っていました。

母親が亡くなって
会社の勤めることが
やっかいに
感じるようになっていました。

今まで
それなりに
会社の中では努力して
会社のみんなに
迎合していたと
自分では思っていたのです。

母が亡くなった頃は
ちょうどバブル絶頂期です。

真一の
勤めている会社に限らず
大方の会社は
大儲けしていました。

総務にいた真一は
業績とは関係がありませんでした。

粛々と仕事をする
仕事が
だんだん嫌になって
自分の仕事を
してみたくなったのです。

特にどんな仕事が
したいと言うこともなかったのですが
自分の仕事をしたくなったのです。

そんな日々が続いた時に
電話がありました。

「朝出勤してこないので
裁判が
あるので
家に来たら
所長が倒れていたので
救急車で病院にはこばれた」と
弁護士事務所の
事務員からの電話でした。



16

電話を聞いて
真一一家は
自動車で
慌てて
病院に行きました。

父親は
鼻や口・腕に
管が繋がれていました。

全く意識はありませんでした。

ICUに入っており
完全看護のため
真一一家は
実家に帰りました。

実家に帰って
休みました。

母親が
生きていた頃は
よく帰っていたので
慣れていました。

父親の書斎に入って
いつもの
椅子に座りました。

椅子は
革でできていて
肘掛けも付いた
立派なものでした。

座り心地も
悪くありません。

父親と
体型が似ているためかと
真一は思いました。

机の
机の大きな引出を
開けると
綺麗に整理されて
文房具が
並んでしました。

右の
小さい引出には
鍵がかかっていました。

大きな引出を
捜すと
鍵が見つかりました。

小さい引出を
その鍵で開けると
中に
大きな封筒が入っていました。

開けると
「相続について」
という書類が
入っていました。



17

大きな封筒には
その他にも
公正証書遺言
財産目録
そして
「真一へ」という
手紙が入っていました。

公正証書遺言は
母親が死んだ時書き直したみたいです。

財産目録には
几帳面に書かれていました。

「真一へ」の手紙には
「私が死んだ時に開封して下さい。
真一以外の人は決して開封してはならぬ」と
表書きに書いてありました。

真一は
大変気になりましたが
父親は
まだまだ
生きて欲しいので
開封はせずに
もとの引出にしまって
鍵をかけ
鍵を元の場所に
おいておきました。

父親の
意識は
回復しませんでした。

3日間
実家にいましたが
仕事があるので
一応帰りました。

それから
日曜日毎に
帰りました。

2ヶ月が過ぎた頃
病院から電話が来て
亡くなったと
知らせがありました。

忌引きを取って
お葬式をして
初七日も
同時にして
帰りました。

それから
一ヶ月が過ぎた頃
弁護士事務所の
事務長が来て
今後のことを
相談に来ました。

事務長は
弁護士事務所を
解散するか
営業権を
売ってしまうか
という相談です。

職員のこともあるので
営業権を
売ることに
しました。

代金については
後日と言うことで
帰って行きました。

それから
数日経った時
税理士事務所から
電話がありました。






18

税理士は
相続について
父親から依頼されていました。

会社に休暇をとって
平日に
実家に帰り
引出の
封筒を取り出しました。

「真一へ」の手紙を
開封しました。

手紙は
思い出の部分と
相続の仕方と
もうひとつの
3部に別れていました。

思い出の部分は
事細かに
日記風に
書かれていました。

相続の仕方についても
詳しく書かれていました。

もうひとつについては
真一は
すべて読みましたが
これについては
決して
口外しませんでした。

その他の
封筒の中身をもって
税理士事務所に行き
相続の事務手続きを
してもらいました。

3ヶ月後
すべてが
完了したと
報告がありました。

真一は
今までに
働いて得たお給料の総額の
何十倍
普通の会社員が
生涯得るお給料の総額の
何倍かを
得たのです。

真一は
詳しいことを
その妻には
伝えませんでした。

そして
その翌日
会社に辞表を出したのです。

19

真一は
妻には
相談もせず
事後報告しました。

いつもそんなところがあるので
驚くこともありませんでした。

会社を辞めたので
実家に帰る予定だと
言うので
自分の実家にも近いので
「まー良いか」
と思ったのです。

真一夫婦は
うわべは
大変仲がよいようにみえました。

夫唱婦随でしょうか
真一の言うことを
「はいはい」と聞いていました。

結婚当初は
ふたり揃って
旅行にも行っていました。

会社を辞めた頃から
一緒に旅行に行くことは
ありませんでした。

実家に帰った真一は
新しい仕事を
する計画を立てていました。

新しい仕事を
饒舌に
話してはいましたが
本当にそうか
まわりの誰もが
思いました。

行政書士の
事務所を
するというものでした。

大阪の
梅田の
一等地の
ビルに
事務所を構えました。

宣伝もしました。

しかし
父親のコネが
なくなった今
繁盛には
ほど遠い
状態でした。


20

何も仕事がなくても
事務所に通い
仕事をしている振りを
家族にはしていました。

もっと
営業にでれば
良いのかとも思いましたが
会社に勤めていた時代
飛び込み営業が
苦手でした。

それが辞めた原因の
ひとつなのに
この場で
再開することなど
考えもしませんでした。

どんなに仕事がなくても
好きな旅行には行きました。

冬には
スキーを何回か
春には
家族揃って
海外旅行
夏には
ヨットや海水浴
秋には
北海道や東北に
行きました。

それ以外にも
事務所を早く閉めて
映画にも
コンサートにも
行きました。

お給料は
親の遺産を
取り崩して
家族に
渡していました。

2年間行政事務所を
した後
仕事を
変えることを
考えてみました。

当時
動き出した
パソコンに
興味を持ったのです。

真一は
パソコンについて
勉強しました。

当時は
相当高価の
パソコンを
購入して
勉強をはじめたのです。


21

真一は
パソコンについて
相当勉強しました。

閑だったので
勉強は
よくはかどりました。

3ヶ月後
高価なパソコンを
5台買って
パソコン
パソコン教室を
はじめました。

妻には
あまり話しませんでした。

話しても
「あっ
そうなの
、、、、、」と
言われるくらいだと
思ったからです。

それに
事務所の看板を
「パソコン教室」に
変えるだけですので
たいした変化ではないと
真一は思ったのです。

チラシ広告がよかったのか
時代に合っていたのか
パソコン教室は
前の
行政書士事務所に比べると
繁盛していました。

高いパソコンの
減価償却に見合う収入が
合ったかどうかは
決算までは
わかりませんでしたが
真一は
「やったー」と
思っていました。


忙しくなると
もうひとり先生を
雇って
隣を借りて
事業を
拡張しました。

2年間くらい
その繁盛は
続きましたが
他にも
競争相手が出てきて
急に
暇になってしまいました。







22

暇になった頃
妻が
真一に
「今日事務所の前を通ったら
パソコン教室と書かれていたの

場所間違えたのかしら」と
話しました。

真一は
妻に少しは
話したと思うのですが
聞いていなかったのです。

真一が
「少し前に
パソコン教室に
変えたんだ。

言ったはずだが」と
言うと
妻は
「そうだったの」と
答えて
その話は
終わりました。

真一のことを
関心を持っていない
妻を
再認識して
がっかりしました。

誰も来ない
パソコン教室を
2年間した頃
大きな地震がありました。

幸い
真一の家や
持っている貸し家には
被害がありませんでした。

ボランティア元年といわれた
この地震で
付近には
相当の被害が出ていて
真一は
ボランティアを
はじめました。

開店休業の
パソコン教室を
止める
理由としては
少し弱かったですが
表向きは
「困っている人達のために
ボランティアを
はじめるから
仕事を
辞めた」と
妻には
言いました。

妻は
「そうなの
それはよいことを
するのね」と
言われたので
真一は
まずまずと思いました。







23

地震が起きてから
ボランティアを
ズーッと
やっていました。

ボランティアですので
何をするかは
特に決まっていませんでした。

地震から
時間が経つと
だんだんと
ボランティアの
仕事もなくなって
暇になってきました。

1年も経つと
1週間に
1日くらいしか
ボランティアはありませんでした。

何もすることもなくなって
何処にも
行かない日が増えて
書斎に
こもりっきりになっていました。

書斎で
インターネットを
していました。

当時は
インターネットゲームの様なものはなく
株の
取引でも
しようかと思い始めました。

時間がいっぱいある
真一ですから
勉強しました。

講習会にも行きました。

本も読みました。

父の残した
ノートも
よく読みました。

株をはじめて見ると
これが
真一にとっては
面白いと
思っていました。。

株をはじめると
書斎にこもる時間が
ながくなりました。

あまり感心のない妻から見ると
真一が
もっと
閉じこもるようになったと
思いました。



24

株をはじめると
世間のことが
よくわかるようになりました。

妻にも
優しく
接するようになったのです。

勝手にしている
罪滅ぼしも
あるのです。

妻の
「アッシー」、「メッシー」、「貢ぐ君」に
真一はなってしまいました。

妻はそれを
閑なので
しているのかと
思いましたが
気持ちいいので
ダダノリしていました。

結婚した頃は
仲がよい
真一夫妻でしたが
だんだん時が経つにつれ
薄らいできて
別々になってきていたのが
また仲良くなってきました。

真一の日課は
午前中
書斎にこもって
午後からは
妻が出かけるところに
車で送っていき
それから
映画を見て
ショッピングセンターを回ったりして
帰ります。

週に
何度か
昼とか
夜外食をしていました。

旅行も
一緒に行くように
なりました。

妻には
株をやっているということを
言ってました。

それを聞いた妻は
株というのが
具体的には
わかりませんでした。

実際の所
真一の
株取引は
信用取引ではなく
現物取引で
額もたいしたものでなく
利益も損も
少しだけでした。



25

利益が上がらないのに
妻には
生活費を
渡していました。

普通に考えると
たいそうな金額でした。

旅行や
外食や
車の購入は
別途真一は出していました。

では
その支出は
どのように
まかなっているかと言うと
それは
妻には内緒の
軍資金があるのです。

真一の
父親が亡くなった時に
3通の
手紙があったことを
覚えているでしょうか。

その中の
「真一への手紙」のなかに
詳しく書かれていたのです。

影の軍資金とでも言うのでしょうか
そのような資金が
真一にはありました。

それは
たいそうな金額で
真一が
旅行に行ったり
車を買ったり
一生働かなくても
なくなるようなものではなかったのです。

その軍資金は
父親が残した
貸し家の管理人室の
床下の
秘密の部屋の中にありました。

一週間に
一度は
妻には
貸家の廊下の掃除と称して
その管理人室に
行って
確認していたのです。


26

ボランティアのために
商売・仕事を
辞めてから
久しくなります。

しかしいろんな所で
職業を
書かなければならないことが
多いと
真一は思いました。

そんな時には
無職と書くのも
何だし
はじめは
貸し家があるので
不動産業と
書いていました。

しかし
誰かに
不動産屋の
おじさんと
言われて
それはやめました。

そこで
いろいろ考えて
投資家と言うことにしました。

実際に
株に投資しているし
その額も
普通の会社員の
年収の
何倍もの額だし
毎日確認しているので
仕事と行っても
問題ないと考えていたのです。

それに
投資家って
格好いいと
自分では思っていました。

国勢調査の時
投資家と
職業欄に書いて
妻に
最初に
見つかりました。

妻は
「投資家なんだ」と
初めて知ったかのように
真一の顔を見て
語りました。

この時から
真一が
「投資家」であることが
公然の事実となりました。

近所の
集まりにも
時間があったので
よく出席しましたが
そんな会合でも
「投資家」ということが
知れ渡っていて
お金のことについて
相談されたこともありました。

27

真一は
相談には
丁寧に答えました。

わからない時は
後日調べて
答えるという
念の入れようです。

相談を受けると
頼りにされているのだと
思って
嬉しくなっていました。

妻にも
少し尊敬されているのではないかと
思ってしまっていたのです。

テレビを見ていると
ファイナンシャルプランナーという
資格があるというのです。

3級2級1級とあって
1級は相当難しそうです。

真一は
3級から受験しました。

いつもの
書斎にこもって
受験勉強をしていたのです。

妻にも
内緒でした。

書斎の掃除と
お風呂の掃除は
真一の当番となっています。

廊下の突き当たりにある
書斎には
妻は
ここ何年間
前まで行ったことさえ
ありません。

映画を見ることを
少なくして
書斎にこもる時間が
長くなったことさえ
妻は
感心がありませんでした。

試験日も
内緒で
行きました。

映画館に行くと
ウソをついて
朝早く行きました。

行く時間が
いつもより早かったので
妻は
不審に思っていたのですが
特に聞くこともなく
送り出しました。

28

真一は
試験は久しぶりでしたが
新鮮でした。

いつも
遊んでいるので
試験は良いと
思いました。

その試験に
合格しました。

妻に話すと
きっと
「あっ
そう」と言うだろうと
思いながら
話すと
妻は
驚いて
喜んでいました。

そしてその日の
翌日
赤飯と
お鯛さんが
料理に出てきました。

真一は
びっくりです。

たいした試験でもないのに
そんなに
祝ってくれて
ありがたいと思いました。

その日から
映画と
旅行と
ショッピングは
少し控えて
勉強に励むようになりました。

ファイナンシャルプランナーに
なったことで
いろんな人から
相談を受けていました。

相談の中には
もっと
他のことも
相談を受けました。

建築のことです。

そこで
建築のことも
勉強をはじめました。



29

勉強をはじめたのですが
なかなか難しいのです。

インテリアコーディネーターは
真一にとって
まったく
畑違いです。

わからないところが
多すぎるのです。

すこしだけ
そんなところに
働きに行こうかとも
思ったのですが
今更
サラリーマンには
帰れないと思いました。

朝は早く出勤して
満員電車にゆられ
朝礼で
上司のくだらない話を聞いて
達成できないノルマのために働いて
お付き合いで
お酒を飲んで
夜遅く帰るという
パターンが
続くかと思うと
勤めることなどできませんでした。

仕方がないので
外から
眺めるだけに
しました。

外から眺めるといっても
眺められるようなの所で
インテリアコーディネーターが
外で仕事を
していることなど
希です。

そこで
近くの人に
頼み込んで
事務所の中で
見さしてもらうことにしました。

一日
二日
、、、
毎日通いました。

仕事も
少し手伝いました。

1週間が過ぎました。

すっかり
事務所の
事務員になってしまいました。

仕事が
嫌だったのに
仕事を
していたという
ことです。

妻も
朝でて
晩帰ってくる
真一を
尊敬の目で見てしまいました。


30

長い結婚生活で
尊敬されるのは
外国に行って
うまく通訳できた時と
車の運転して
妻を送迎した時
くらいだったので
真一は
嬉しかったのです。

1ヶ月が過ぎて
事務所の所長から
「もうこれくらいで良いのでは
、、、、、、

それとも
事務所に勤められますか」と
尋ねられました。

勤めるのも良いけど
きっと勤めたら
妻は喜ぶと思うけど
今更
仕事は
おっくうでした。

そこで
やめました。

また書斎にこもり
ぶらぶらする毎日です。

遊び人に戻ってしまいました。

妻が
「またか」と
言っているように見えました。

そんな目で眺められると
何かしようと思いました。

たまたま訪れた公園で
炊き出しをしている
人達を
見かけました。

真一は
ボランティアをはじめました。

捜してみると
ボランティア活動の仕事って
たくさんあって
毎日とは言わないけど
あるのです。

自分のために
ボランティア活動を
はじめたと
ボランティアの仲間には
言っていました。

投資家としての仕事も
気合いを入れて
するようになり
日々の生活費くらいは
捻出できるようになりました。



妻の親戚の法要に出席した時
何でも
ずばずば言う
論客が
「真一さんって
財産は
よく続くわね」と
言っていきました。

真一は
つかさず
「大丈夫です。
財産はへらしていません。」と
自信一杯に
答えました。


頑張る
遊び人で
真一は
生きていくことにしました。


投資家は闇の中にあって
頑張るものだと
そうすれば
遊びも
もっと頑張れると
思いました。


終わりです。