ロフト付きはおもしろい

ロフト大好きの68歳の老人の日記です

一番怖い話は「戦争」に決まっています。その2

今週のお題「怖い話」

あまり怖い戦争の話は
少し封じておいて
ほどほどのものを
2題といっても
悲惨ですが
人命が失われないものなので
書いてみます。

 

母から聞いた話です。

母は高等小学校を卒業して
1928年13歳の時に
電話交換手になります。

手が届かないので
椅子の上に台を置いて
はじめのうちはしていたそうです。

戦争になる前夜のことです。

老いた母親と放蕩な兄の子供つまり甥と姪の生活を守るため
少し高収入の
私が今住んでいる近所の
武田薬品の工場に転職しました。

戦争が激しくなると
食料は
配給になり
食べ盛りの
甥姪のことを考えて
森永製菓の塚口工場の食堂に転職しました。

お給料は
大幅減ですが
食料が手に入るので
転職したそうです。

その頃の森永製菓は
軍需工場でした。

爆撃も何度かありましたが
難を逃れていました。

終戦も間近になるころには
米軍機に反撃することもなくなり
我が物顔で
攻撃を仕掛けてきたそうです。

終戦の年の
3月
米軍機(たぶんグラマンだと思います)が
何度も森永工場を
機銃掃射
(軍用機に搭載している
機関砲は前方まっすぐな位置に固定されて
取り付けられています。

多くは口径(弾の直径)が大きくて
人間が被弾する即死する
怖い鉄砲で掃射とは、連続して射撃することです。)
するのです。

森永工場は
鉄筋コンクリート造になっており
機銃で貫通することもなかったのですが
母が勤めていた
食堂の屋根は
薄いスレートぶきで
機銃が貫通して
床に
パチパチと
はじけたそうです。

母は
走って
防空壕に逃れて
難を逃れるのですが
急降下して
上昇に転ずる一瞬
米軍のパイロットの姿が
見えたと
言っていました。

誰も
死ななかったので
良かったと思ったのは
帰り道でした。