ロフト付きはおもしろい

ロフト大好きの68歳の老人の日記です

昭和30年代初めの頃 2月頃の我が家の一日 全話

先日来より
誰でもわかる昭和30年代クイズで
取り上げております

十能
消し壺
ひあそみ
かんてき
まめたん
こたつ

で
少し物語を作ってみようと思います。

落語の
お題話しのように
落ちもありませんので
ご容赦下さい。

昭和30年代初めの
田舎の寒村の
様子を
描いたもので
特に筋書きもありません。

面白くもありませんが
読んで頂いたら
私の子供頃の
様子が
理解できるかなと
思います。

もちろん
理解できても
なんの役にも立ちませんし
そんなこと
どうでも良いことくらい
わかっていますが
ご容赦くださいますようお願い申し上げます。

____________________________

私が生まれたのは
昭和27年1952年です。

生まれたところは
尼崎市瓦宮宮裏143番地と言うところです。

大阪まで
25分のところです。

私が
たぶん4歳頃の
話です。

昭和31年頃
もうすぐ
水道が
やってくる頃の
話です。

私は
4歳ですので
何もできない
家族に頼りっきりの
子供でした。

私の家族は
よく働く
初老の父と
母
歳の離れた兄
そして
4歳年上の秀才の姉です。

季節は
冬
寒さが
少しだけましになってきた
2月の終わり頃です。


朝私は
パチパチという
いつもの音で目が覚めました。

駅の時計として
働いていた
我が家の柱時計が
七つ鳴って
七時を告げました。

私は
起きて
寝間着
(暖かいネルの生地でできた
浴衣のようなもの
母の手縫いです。)を
脱いで畳みました。

お尻に
丸く「つぎあて」が
あたった
ズボンをはいて
それから
上に
綿入れの
着物を着て
ひもで結んで
起きていきました。

姉は既に起きて
手水(ちょうず)を
使っていました。

私も
使い込んだ
アルミの
小さな容器を
持って
母のところに行きました。





土間に下りて
母に
「おはようございます」と挨拶しました。

我が家では
父母には
今考えれば
敬語を使っていました。

昔の家は
当たり前ですが
お料理をするところや
かまどのあるところ
流しのあるところは
土間になっています。

土間とは
土に
苦汁(にがり)を混ぜ
突き固めて
コンクリートたたきのように
したところです。

アルミの洗面器を
持って
母のところに行くと
かまどの上の
おおきな鉄鍋から
しゃくですくって
お湯を入れてくれました。

こぼさぬように
外の流しに持って行って
顔を洗いました。

4歳の頃は
私は
歯を磨いていませんでした。

私が歯を磨くようになったのは
たぶん
小学校三年生ぐらいの時からです。
もちろん
朝起きた時に
一回磨くだけです。

甘いものなど
食べられませんので
小学校低学年では
虫歯はなかったです。

顔を洗って
手ぬぐい掛けにある
自分の手ぬぐいで顔を拭きました。

当時は
タオルはありません。

柄のない
日本手ぬぐいで
を使っていました。

顔を拭いて
板間に戻ると
父と兄が帰ってきました。

「おはようございます」と
挨拶しました。

父と兄は
「おはよう」と
言ってくれました。

父は
気難しいので
機嫌を損ねないように
子供ながら
思っていました。

父と兄は
顔や手足を
お湯で洗って
さっぱりして
板間の
上座の
座布団の上に座りました。

父母兄は
冬のこの季節には
六時前に
起きて
父と兄は野良仕事に出かけていたと思います。

母は食事の用意をしていたのではないかと
思います。

かまどは
ふたつあって
ひとつは
ご飯を炊くための釜に使います。

もうひとつは
お湯を沸かしたり
味噌汁をつくったり
牛のための
ロールを作るために使っていました。



姉は
みずやから
ひとりひとりの
お膳を出して
並べました。

私は
お膳の前に座りました。

(お膳というのは
小さな箱で
中に
お茶碗と
お箸が入っています。

普通は
ご飯のあとで
お白湯で
ゆすいで
おこうこ(大根の漬け物)で拭き取り
洗わず
また中に仕舞っておきます。

当時は
油ものは
絶対と言うほど
食べませんので
これで充分です。

水の便が悪い頃ですので
そのようにするのが
当たり前でした。

もちろん
お白湯は飲んで
おこうこは
食べておきます。

この当時は
お茶は飲んでいません。

お茶は現金で買わねばならないので
村で
お茶を飲んでいたのは
少数の裕福な人達のみです。)

お膳から出した
お茶碗に
ご飯がよそわれました。

父と兄は
茶碗は
いわゆるどんぶりです。

ご飯は
半麦米です。

(後で知った話ですが
ふつうの
半麦米(はんばくまい)は
麦四米六の割合でしたが
我が家では
本当の半麦米で
麦五米五の割合です。)

味噌汁とのお椀が
配られ
目の前の膳の上には
大根と白菜のぬか漬けが
山盛り置かれていました。

父の
「頂きます」のあと
家族全員が
「頂きます」の唱和のあと
食べ始めます。

私は
正座して
黙々と
食べ始めます。

食事中話すと
父の一喝がありますので
絶対に
黙って
食べていました。

姉は
みずやから
ひとりひとりの
お膳を出して
並べました。

私は
お膳の前に座りました。

(お膳というのは
小さな箱で
中に
お茶碗と
お箸が入っています。

普通は
ご飯のあとで
お白湯で
ゆすいで
おこうこ(大根の漬け物)で拭き取り
洗わず
また中に仕舞っておきます。

当時は
油ものは
絶対と言うほど
食べませんので
これで充分です。

水の便が悪い頃ですので
そのようにするのが
当たり前でした。

もちろん
お白湯は飲んで
おこうこは
食べておきます。

この当時は
お茶は飲んでいません。

お茶は現金で買わねばならないので
村で
お茶を飲んでいたのは
少数の裕福な人達のみです。)

お膳から出した
お茶碗に
ご飯がよそわれました。

父と兄は
茶碗は
いわゆるどんぶりです。

ご飯は
半麦米です。

(後で知った話ですが
ふつうの
半麦米(はんばくまい)は
麦四米六の割合でしたが
我が家では
本当の半麦米で
麦五米五の割合です。)

味噌汁とのお椀が
配られ
目の前の膳の上には
大根と白菜のぬか漬けが
山盛り置かれていました。

父の
「頂きます」のあと
家族全員が
「頂きます」の唱和のあと
食べ始めます。

私は
正座して
黙々と
食べ始めます。

食事中話すと
父の一喝がありますので
絶対に
黙って
食べていました。




黙々と
麦飯を食べ
白菜の漬け物を
食べて
おこうこを食べました。

父の口癖
「早飯早くそも
芸の内」ですので
早く食べないと
叱られます。

私は
30才までは
ものすごく早くご飯を食べていました。

でも
父や兄は
どんぶりで
3杯の
半麦米を食べますので
私より
時間がかかりました。

父が
箸を置くと
「ごちそうさまでした」と
唱和して
食事は終わります。

お膳の中に
お茶碗と
お箸を
仕舞って
食事は終わります。

しばらく
座布団に座っていますが
父が
「作業」の
声で
父と兄とは野良仕事に
母は
後始末
姉は
学校へと
出かけます。

私は
子供ですので
役にも立ちませんので
家で
じっとしている時間の始まりです。

父が
出かけていったのを
見届けてから
足を崩しました。

それから
庭に出て
便所に行きました。







今日は
トイレの話ですので
お食事の方は
ご遠慮下さい。



私の
家の
便所は
家から離れた
庭の向こう
門のそばにありました。

畳1畳敷きほどの広さです。

右側が
小便所
正面に
「こえたんご」があります。

こえたんごは
肥担桶(こえたご と読みますが
なまって
こえたんご となります)
と書きます。

その漢字の通り
木の桶で
その2カ所に
穴があいており縄がかかっています。

その縄を
天秤棒にかけて
運びます。

それが
担桶です。

糞尿を入れて
運びますので
糞尿は
肥料ですので
肥担桶
と言います。)

小便所の左側には
小さな木の扉があって
奥に
大便所があります。

扉を開けて
大便所に入ると
左に
窓があります。

即ち
庭の方向
西向きです。

窓と言っても
土壁の一部を
小舞を残して
塗っていない部分です。

(小舞とは
土壁の
芯と成る
竹で作った
下地です。
竹小舞ともいいます)

大便所は
今で言えば
和式の
便器です。

といっても
陶器の便器ではなく
木で出来た
「きんかくし」があるだけです。

その便所を
もっと説明すれば
床は
木の荒板が
無造作に縦に並んでいて
その一部を
切り取って
穴を開けたところが
用をたすところです。

穴の
左側に
木が立っていて
それがきんかくしと言われる部分です。

壁は
荒壁だけで
土塗り壁の
下地だけを塗ったものです。

天井はなく
母屋を渡した上に
垂木が打ち付けられ
その上に
荒板が並べられて
葺き土を置き
瓦葺きとなっていました。

床下には
素堀の
穴があいており
そこに
糞尿を蓄える仕組みになっています。

西側の
庭に面したところに
くみ取り口があります。

また
大便所には
小さな木の箱が置いてあり
その中に
新聞紙が
切って置いてありました。

新聞を
4回切って
16分の1の大きさにしたものです。

少し長くなったので
明日に続きます。





新聞を
16分の1に切った
紙で
用をたした後
拭きます。

もちろん
そのままでは固いので
新聞を
もみもみして
使います。

お金持ちでは
新聞紙ではなく
ちり紙を
使っていたようですが
当時の私は
これが当たり前だと
思っていました。

いつの頃か
判然としませんが
もっと
もっと
小さい時には
母に
用をたした後
拭いてもらっていました。

でも
ある時
母は
私を呼んで
これからは
自分で拭くようにと
申しつけました。

そして拭き方を
私に教えてくれました。

たぶん
アイロンが入れてある箱を
逆さにして
その上を
こんな風に拭くのだと
手を取って
教えてくれました。

何回も
私自身
練習したように思います。

子供には
初めてのことですので
教えてもらわないと
わかりませんものね。

皆様は
如何ですか。

こんな風に教えてもらった
やり方で用をたしました。

便所の
入り口の
右側には
手を洗うための
水を蓄えた
ブリキで出来た
桶が吊ってあります。

桶の
下側には
棒があって
その棒を
上げると
水が
落ちてくるようになっています。

私は
背が低いので
届きませんので
下の
桶で洗います。

用をたした後
4才の
私には
何もすることがありませんので
縁側に
行きました。

ガラス越しに
陽光が差し込む
縁側は
暖かいです。

お布団を
出してきて
寝てしまいそうです。

母は
「行ってくるから
かしこく
留守番するんだよ」と
言って
用事を終えて
農作業に
行きました。

私は
ひとりっきりになりました。


7

ひとりっきりになってしまった私は
縁側で寝たり
奥の
お布団の中に入ったり
庭に出て
ひとり遊びをしたり
牛がいる時は
牛を見たり
門の外の
小川の魚を見たり
気候がよい時は
母親の野良仕事を見たりしました。

この日は
外は寒いので
家の中にいました。

私は
こんな小さい時の
記憶は
全くありませんが
幼稚園に行った
5才の頃くらいの時は
覚えていて
ぶつぶつ言いながら
自分で
物語を作っていた様に思います。

どんな物語を作ったかについては
記憶にありませんが
小学生時代は
冒険ものが
多かったように思います。

ひとりで
遊んでいた私は
そんな
想像をたくましい
幼児時代だったのです。

昼前になると
まず母が帰ってきます。

飲料水を入れた
壺の水が
少なくなっていたので
母は
桶を
天秤棒で
吊って
水を
もらいに行きました。

我が家の水は
村はずれにある
空き家の井戸から
頂いていました。

その空き家は
我が家が
村はずれにあるのですが
もう片方の
村はずれにあります。

たぶん300mくらいあります。

その家の井戸は
水が
綺麗で
臭いがしません。

良い水が出る井戸なんです。

私の家にも
井戸がありましたが
とても
飲料にするには
適さない
水だったのです。



8

もうすぐ
水道が
引かれることになるのですが
小話の時代にはありません。

母は
水を
桶に入れて
戻ってきて
壺に入れました。

昼ご飯は
簡単です。

お漬け物を
山ほど並べて
ご飯は
朝炊いたものを
出すだけです。

汁物があることも
ありました。

遅れて
父兄が
帰って来て
手足を洗って
朝のように
お膳に座って
十年一日が如く
ご飯を頂きます。

夏の頃なら
昼寝があるのですが
まだまだ寒い
この時期には
そのようなものは
ありません。

ご飯が終わり
「作業」の号令の後
私は
また縁側に行って
日向ぼっこです。

母が
後片付けをして
出かけると
私は
またひとりっきりになります。

昼からは
家の中を
走り回って
探検ごっこです。

私の家には
南側には
おおきな縁側の窓や
入り口の木戸があります。

東と西には
窓はありません。

北側には
勝手口と
お風呂の窓
そして
北向の小部屋の小さな窓があります。

北側の窓は
4才の私が立つと
ちょうど
目の高さにあって
そこから見える
景色は
南の縁側から見える景色とは
全く違います。

縁側から見える景色は
おおきな何もない庭と
その向こうにある
右側から
便所
井戸
粗末な門
牛小屋と
藁を置いている小屋と
通用門
そして
少し傾いた木の塀があるだけです。

それに対して
北側の窓から見えるのは
四季の移ろいが
はっきりと見えるのです。

9

二月の今頃は
冬枯れの季節ですが
麦の
若葉が
田んぼを覆っていました。

大人になった
私が
もっと細かく
景色を説明すれば
窓のすぐ近くは
私の家の
畑で
今頃は
白菜を作っていました。

その畑の
右の角には
先の大戦で
戦死された
兵隊さんの墓があります。

この話の
五年前までは
その墓の
西側には
この村の墓が多数あったのですが
この墓以外は
新たに作った
墓地に
移転したのです。

あまりにも大きく
重いこのお墓だけが
残されたのです。

畑とお墓の向こうには
小川があって
その小川は
私の家のそばから流れていきます。

小川の向こうは
ズーッと
田んぼが
整然と流れています。

窓の右側
つまり東側は
100Mほど行くと
藻川の堤防になっています。

窓から見える
一番近い
家は
700m先に見える
平屋建ての
長屋です。

当時は
目も良く
空気も澄んでいましたので
よく見えました。

その長屋は
戦前までは
隔離病棟
(たぶん
法定伝染病の
赤痢とか)
だったのですが
戦後は
引き揚げ者住宅となっていました。

戦争で
海外から
引き揚げて
家のない方々が
お住まいみたいだった様です。

小学生時代
友達がいて
行ったことがあります。

北側の入り口を入ると
狭い土間に流しがあって
その向こうに
六畳の部屋と
押入があって
南に
おおきな窓がある
構造の
長屋が
二棟ありました。

便所は
もちろん
外の共同便所でした。

六畳一間に
四人すんでいました。

私の家の窓から
洗濯物が
はっきり見えました。





10

北の窓から見える
引き揚げ者住宅は
今日も見えました。

天気なので
たくさんの洗濯物が
満艦飾のように
見えました。

その左側には
下食満の村が見えました。

食満は
天皇陛下が
有馬道を
行幸の折
食事をしたとか
いわれのある村です。

もう少し時代は下がって
戦国時代になると
織田信長の伊丹攻めの時
織田の本陣があったそうです。

NHK大河ドラマ
黒田勘兵衛でも
出てくるかもしれません。

田んぼの中に
点々と
農家が
見えました。

そしてその向こうに
川西の山々が
見えました。

二月は
小さな麦が
見える程度ですが
季節ごとに
その景色は
変わります。

まだまだ寒い
二月には
雪が降ると
山まで
真っ白になったり。

四月になると
所々で
桜が咲いて
ヒバリが
飛んでいます。

五月になれば
麦秋となり
麦の穂が
茶色になって
一面
波打つような
茶色の波です。

麦とお米は
遠目にも
違っているように思います。

麦が収穫されると
一面
田んぼには
水がたたえられ
池の中に
緑の畦が
浮かんで
綺麗です。

その中を
牛が
ゆったり右左に
平らにして行きました。

この村では
六月の下旬
田植えが行われます。

大勢の
早苗さんが
他の村々から
やって来て
手際よく植え付けてくれます。

私の家にも
四人ぐらいの人がやってきて
三日がかりで
植え付けてくれました。

その間
我が家で
夜寝て頂きました。

七月になれば
暑い中
草取りをする
姿が見えます。

近くから
山に至るまで
空まで
緑になっています。

八月になると
稗(ひえ)取りが
行われます。

本当に暑い中
父や母は
手で草を
取るのです。



11

九月になると
稲は
花が咲きます。

稲の花は
一日だけ
咲いて
雄しべを
外に置いて
しぼみます。

そのあと
田んぼは
だんだんと
母の言うには
「黄金色」に
変わっていきます。

「実るほど
頭を下げる
稲穂かな」の俳句通りに
実ります。

我が家の
現金収入の
大部分を占める
稲の収穫の始まりです。

九月の終わりか
十月に始頃に
稲刈りが行われ
田んぼは
様変わりします。

刈った稲を
乾燥させるための
当地では
「だて」という
ものにかけられます。

だてが
田んぼを覆います。

しばらくして
脱穀が始まります。

私が物心ついた頃には
すでに
定置式の
脱穀機が
出来ていて
器械で脱穀していました。

エレベーター式という方法で
稲を挟んで
脱穀機の中に流れていきます。

脱穀が終わると
藁は
藁の倉庫へ
リヤカーで
積まれて運ばれます。

冬の仕事に
藁で藁縄や
藁むしろや
俵を編むのに
使います。

また燃料としても
使われます。

倉庫に入りきらない
藁は
中に柱を立てて
周りに引っ掛けるように積んで
田んぼの中に置いておきます。

この様に
積み上げられたものを
当地では
「ぼーと」と
呼びます。

十月のまつりの季節には
田んぼに
ぼーとが
そこらここらに
出来上がります。

倉庫の藁を
使ってなくなると
ボートの
藁を
倉庫に入れて
秋まで
使います。

同時に
冬作の
野菜を作り始めるか
麦を植える用意を
始めます。




12

脱穀が終わると
そのままでは
出荷出来ません。

いわゆる玄米に
する必要があります。

その工程を
当地では
「うっすり」と言います。

たぶん
臼で「擦る」ので
「うすすり」となって
音便化して
「うっすり」になったんだと
私は思います。

普通では
もみすりと言います。

この時代には
既に機械化されていて
我が家にも
うっすり機がありました。
十月の始の頃の
天気のよい日に
器械を庭に出して
仕事を始めます。

納屋に仕舞っている
お米を
箕(み)で運び
器械に投入します。

器械の中で
籾殻と玄米に別れて
籾殻は
吹き飛ばされて
出てきます。

玄米の方は
針金が
平行に張られてた
坂を
落ちながら
小米(規格に合わない小さなお米)を選別して
落ちてきます。

むしろで受けて
玄米を
集めます。

玄米を
枡に入れて
測ります。

枡は
10升即ち
1斗入ります。

4斗を
藁で作った
俵に詰めます。

60Kgになり
相当な重さです。

藁で作った
蓋を
藁縄で
閉じます。

その俵を
藁縄で
締め付けます。

鉄製の
締め付け器の力を
かりて
強く締めます。

コクゾウムシが
増えないように
しっかり締めるのだそうです。

その重い
俵を
納屋に仕舞います。




13

脱穀されたお米は
「うっすり」で
籾殻と玄米わけられます。

籾殻は
リヤカーに載せられ
田んぼに運ばれます。

そして
火種を入れ
煙突を付け
山のように
積み重ねられます。

籾殻は
ゆっくりと
燃えていきます。

煙が
煙突と籾殻の山全体から
出てきます。

そこかしこで
煙が出てきて
晩秋が
やって来ます。

北の窓から
田んぼから上がる
煙が
見えると
寒い冬がやってくるのです。

子供心にも
わびしい感じが
しました。

和歌の枕詞
「猪名の笹原」とは
様子が違いますが
情景は
似たもののように思います。

そんな
煙が
ゆっくり立ち上る
秋が終わると
また
麦の季節です。

牛が
鋤を引いて
耕し始め
麦作りが始まります。

そんな一年が
終わるのです。

小さな窓から見える
情景は
大きく変わります。

そんな情景を
じっくり見ていた
私は
姉が
「ただ今帰りました」と
言う声を聞いて
南の
玄関にいきました。

姉は
ランドセルを
持って
勉強部屋に使っている
北の窓のある部屋に
行きました。

窓の前には
父が作った
小さな
机があって
そこで
宿題をし始めました。

私は
小学生になったら
勉強で大変なんだなと
思いました。

何もすることがない
小さい頃の方が
良いと
思ったかどうか
記憶にはありませんが
今の私は
この頃の方が
よかったようにおもいます。

おもちゃも
もちろんゲームも
テレビも
ないこの時代でも
私は
想像は出来ましたから
きっと
楽しくやっていたのだろうと
思います。





14

いにしえの 猪名の笹原 田になりて

殻焼く煙 ゆら立ち上り


見ている時は
そのように思いませんでしたが
五十五年経った時
私は
無常を感じます。

姉は
時間を経て
私に
「遊ぼうか」と
言ってくれました。

いわゆるままごと遊びです。

姉は
もちろん
母親役で
登場です。

私は
いつもは
赤ちゃん役です。

姉が筋書きを
決めます。

そんなことを
小一時間していると
母が
夕餉の支度で
帰って来ました。

今日は
風呂を
たてる日です。

風呂に水を
入れなければなりません。

今なら
スイッチを
押したら
自動で入りますが
当時はそんなものはおろか
水道もありません。

姉と母は
桶で
小川の水を
運びましす。

私は
重い桶を持てるほど
大きくはなかったので
しませんでした。

大きくなったら
しなければならないと
思いましたが
ものすごく大変なようにみえました。

でも
その後
水道が来て
そんなことは
しなくても良いことになりました。

大変な
お風呂ですので
冬は
三日か四日おきです。

何回も運んで
5分目まで
入りました。

私の家の
お風呂は
五右衛門風呂です。

周りが
木の桶のようになっており
竹で
輪掛けがされています。

そこだけが
鉄で出来ています。

お風呂の下には
焚き口と
煙突があって
焚き口から
火を焚きます。

当時の
私の家は
薪を買う現金がありませんでしたので
もっぱら
藁を
燃やしつけていました。

藁だけでは
足りなくなりますので
「とうじんぐさ」と
呼ばれていた
女郎草を
秋に刈って置いていました。





15

藁を
仕舞っている納屋から
持ってきます。

その納屋は
粗末な作りで
地元の人は
バラックと言っていました。

なぜ
英語なのか
私には
わかりませんが
バラックbarrackだったんです。

兵舎とか粗末な大きな家の意味があるそうで
進駐軍から
きているのかもしれません。

そこから
持てるだけの
藁を
持ってきます。

風呂の焚き口の前に座り
藁を
丸めます。

マッチで
火を点け
かまどに放り込みます。

藁は
パーッと燃え上がり
次の瞬間
火が小さくなります。

そこで
藁を丸めて
放り込みます。

次から次へと
放り込みます。

薪なら
ずーと付いていなくても良いのですが
藁は
大変です。

姉も手伝って
お風呂が
わき上がります。

父が帰ってきて
一番に入ります。

入ると
湯が冷めるので
必ず
湯加減を聞かねばなりません。

藁を
丸めて
放り込みます。

ふたつかみっつ放り込むと
充分になります。

父が上がってくると
兄と
私の番です。

一緒に張ります。

母が
「お風呂で暴れたらダメですよ」と
言われてしまいました。

だいぶ前になりますが
風呂で
兄と
すこし
ほたえていたら
(当地の言葉で
暴れていたら)
お風呂の底が
抜けてしまったのです。

前にも言いましたが
五右衛門風呂は
そこだけが
鉄で出来ていて
輪掛けで
強く締め付けて
止めているだけです。

なにぶん
炎で
あぶりますので
水があっても

あまくなるみたいです。

そこで
底が
抜けてしまいます。

兄が
修理してくれて
事なきを得ましたが
大変なので
そーと
お風呂に入ります。

五右衛門風呂に入る時は
底が鉄で
追い焚きをすると
熱いので
木で出来た
「げすいた」と
呼ばれる板を
底に沈めながら
入ります。

私には
出来ませんので
兄が先に入ります。

私が続いて
入ります。

同じように
母が聞いてくれて
追い焚きすることになりました。

底が
凄く熱くなって
熱い湯が
上がってきます。

私は
追い焚きは
いやですが
寒いので
仕方がありません。

16

兄との
お風呂は
楽しいです。

兄は
優しいです。

歳が離れていますで
父のように
慕っていました。

厳しい父でしたので
そう思ったのかもしれません。

お風呂は
土間の向こうにあって
北側にあります。

お風呂は
水を使いますので
建物は
傷みやすいので
なるべく外に設置しています。

バスユニットが出来た現在では
そんなことはありませんが
当時は
木が腐って
家が傷むのを
嫌ったのです。

冬は
台所の
板間で
服を脱いで
下駄を履いて
風呂場まで
行くのは
寒いです。

土間辺りは
すきま風が
入ってきて
外と同じ気温で
寒い限りです。

冬は
さっさと
お風呂に入らないと
冷めますので
残る姉や母も入ってから
夕食です。

夕ご飯には
お漬け物の他に
一品が付くきます。

時たま
魚料理が出ることがあっても
肉料理など
あり得ません。

一品の料理は
普通は
野菜の煮付けです。

畑で
取ってきた
野菜です。

二月のこの頃なら
たぶんキャベツです。

おかずと言うより
主食に近いほど
たくさん食べます。

キャベツを
たくさん摂ると
大きくならないと
聞いたことがありますが
私は
小学校4年までは
小さい方でした。

キャベツを
止めてから
背が伸びたような気がします。




17

その日も
キャベツの
煮付けです。

出汁をとったわけでもなく
油揚げとか
他のものと
煮たわけでもなく
卵とじにしたわけでもなく
醤油と少しの砂糖で
味付けしただけの
キャベツの煮付けが
山のように
盛られます。

美味しいか
美味しくないかなど
そんなことを
考えることなしに
頂きますの後
食べました。

食事の内容を
少しでも
話すことなどあったら
私なんか
何度家を放り出されたことか
わかりませんので
黙って食べます。

テレビがない時代ですので
黙々とたべます。

ラジオはありましたが
ラジオは
つけません。

食べる時に
別なことを
するのは
父の言葉を
借りれば
「言語道断」だそうです。

食事が出来ることを
感謝する姿勢の
表れだと思います。

そうだと思います。

食べることが
大変な時代だったんです。


食事が終わると
ごちそうさまの後
ラジオがつけられます。

母は後片付けと
こたつの準備を始めます。

父と
兄は
夜なべ仕事を
始めます。

土間に
藁を持ち囲み
藁を「かつ」のです。

藁を「かつ」とは
藁を叩くことです。

藁縄や俵・むしろなどを作るための
わら細工をするためには
藁は
柔軟でなければなりません。

藁は
筒のような構造で
丈夫です。

わら細工をするためには
軟らかくないと
曲げることが出来ません。

そこで
藁を
木の槌で
叩くのです。

藁の
筒状の構造を
潰して
曲げやすくするのです。

木の台に乗せられた
藁を
木の槌で
叩いて
軟らかくします。

不要な
藁の葉っぱを
取り除きなら
選別していきます。

私は
コンコンと叩く音を
聞きながら
家の中を
流れる
ラジオを聞いていました。







18

母は
こたつの準備です。

まだまだ寒い
二月ですので
こたつを
用意します。

かんてき(七輪)に
新聞紙を
丸めて
火を点け
その上に
消し壺の
からけしを置きます。

下から
使い古した
大きめの
うちわで
パタパタと
七輪の
下の口へ
風を送ります。

炭は
すぐ
いこります。

その上に
豆炭を
置きます。

しばらくすると
豆炭に火が点き
万遍なく
火が点いたので
豆炭を
こたつの
器の中に埋めます。

器は
焼き物で出来ていて
中に灰が入っています。

その灰の中に
「ひあそみ」(火ばさみ)で
火の点いた
豆炭を
埋めます。

灰を
少し高く盛り上げ
その器を持って
座敷に行きます。

押入から
お布団を出して
座敷に敷き始めました。

夏は
川の字に
敷くのですが
冬は
少し変わった
敷き方です。

お布団の
足の方を
座敷の部屋の真ん中にして
東枕
南枕
西枕にして
敷くのです。

足下に
こたつの本体を置きます。










19


ひとつのこたつで
みっつの布団の
暖をとるのです。

理屈上は
もうひとつ
4人まで出来るのですが
それはしません。

だって
ひとつは北枕に
なってしまいますので
それを嫌っているのです、

父が一番奥
私と母
姉
が寝ます。

母は
慎重に
掛け布団を
掛けます。

勢いよくやると
豆炭の上に
掛けてある
灰が
飛んでいくのです。

辺り一面
灰だらけにならないためには
慎重しかありません。

そんな風に敷き終わると
寝る準備は
一応完成です。

それから
母は
姉の
勉強を見る時間になります。

裸電球が
ひとつ下がっている
北の部屋に行きます。

姉も
一緒について行き
父が作った
机の前に
座ります。

母は
鯨尺
(着物を作る時に使う物差し)
を持って
姉の勉強を
見るのです。

母は
学校の先生に
なるのが夢だったのです。

でも
貧乏のため
高等小学校を卒業すると
交換手として
勤め始めました。

女学校に行って
師範学校に行って
先生になりたかった母は
娘に
その夢を
託したいと
言っていました。

厳しい
指導を見た
私は
いつも
びっくりしていました。

母は
平素は
本当に優しい
母でしたが
その時だけ
厳しくなるのです。

私も
大きくなったら
こんな目にあるのかと
恐ろしくなっていました。

でも
その
恐れは
杞憂だったんです。

20

母は
賢明な大正生まれの女性です。

子供の能力を
見抜いていたのです。

姉には
あんなにも
厳しかったけど
私には
「勉強しなさい」とは
言ってくれましたが
しないからと言って
叩いたりはされませんでした。

通知簿で
「2」を
持ち帰った時も
他の部分を
誉めてくれました。

私には
誉めて育てる作戦だったように
思います。

たぶん
私の能力の程度にあわせてくれたんだと
今になって思います。

姉は
母の
期待通り
先生になりました。

ラジオを
聞きながら
8時半になったので
私は
寝る準備を
することになります。

まず
トイレに行きます。

土間に下りて
下駄を履いて
木戸を開けて
トイレに行きます。

今日は
月明かりで
明るかったので
走って
便所まで
行って
急いで
用をたして
帰って来ました。

トイレに行くのは
とっても怖いことです。

怖いので
母に
付いて行ってもらいたいと
思いましたが
父親が
見ているので諦めました。

下駄を
揃えて
脱いで
上がりました。

たくさん
着ている
冬の服を脱いで
寝間着に
着替えます。

寝間着とは
着物です。

「ネル」と言う記事で出来た
和服です。

丈(服の長さ)は膝の少ししたくらいしかありません。

脱いだ服は
ちゃんと
たたまないと
父親の
叱りになります。

父は
土間で
藁をかちながら
こちらを見ていました。


21

寝間着に着替えた
私は
父が仕事をしている
土間のある方を向いて
正座して
「お父ちゃん
お休みなさい」と
手をついて
言いました。

同じことを
夜なべをしている
母にも言いました。

母は
「はい
お休み
お布団の中で
暴れたら
いけませんよ。」と
言ってくれました。

そーっと
お布団の中に入りました。

足下は
暖かくて
生き返るような
幸せな感じです。

私は
お布団を
ドームのようにして
潜水艦ごっこを始めました。

どんなに楽しいか
皆様には
おわかりにならないかと
思いますが
小さな時
冬の布団の中の
一番の楽しみです。

土間では
父の
藁をかつ音が
聞こえています。

すぐに眠りに入って
私の一日は
終わります。

父も
9時過ぎになると
仕事を終えて
床につきます。

一番最後に
母が
私のお布団の中に入ってくると
我が家の一日が
終わります。

なにも
特別なことが
起こらない
一日が
終わりました。