ロフト付きはおもしろい

ロフト大好きの71歳の老人の日記です

長編小説「昭和」その100まで

1

この物語は
明治・大正・昭和を
疾風のように駆け抜けた
人々の物語です。




今からもう150年前になるのでしょうか
大きな変化がなかった
平和な江戸時代から
怒濤の
大変革の明治時代になった頃から
このお話は始まります。

江戸時代は
農業の世界では
全くといって良いほど
進化しませんでした。

唯一
大きく変わったのは
脱穀のやり方です。

社会の教科書で
習ったことがあると思いますが
「千歯こぎ」が
発明されたことです。

それまでは
干した後
棒で叩いて脱穀していました。

新しく考案された
千歯こぎは
鉄の刃が細い隙間を挟んで
並んでいて
そこに
稲穂を通すだけで
脱穀するもです。
て
農業の効率が
飛躍的に
改善したということが
伝えられています。

今から考えると
そんなものが
「飛躍的」
と形容されるのですから
江戸時代が
如何に
十年一日が如くの世界でした。

いや
百年一日が如くの世界でした。

しかし表面化はしていませんでしたが
着実に
時代の進化は
生じていたのです。

それが
顕在化して
明治維新に
進んでいくのですが
この物語に出てくる人物には
それを知るよしもありません。

否応なしに
そんな怒濤の時代に
放り出された
人々が
一心不乱に
懸命に生きていく
物語です。

場所は
武庫郡今津村
(むこおごおりいまづむら)です。

現在は
兵庫県西宮市今津です。

阪神電車今津駅の北側
今津曙町です。


この物語のころの
今津は
半農半漁の港町でした。

砂浜が続く
海岸線の
砂防林の後ろに
田んぼが
広がっていました。

田んぼには
夏はお米
冬には野菜や麦
畦には豆と
使えるものは
わずかなところも使って
農業は営まれていました。

そしてその
田んぼのほとんどが
ほんの一握りの
大地主が
持っていました。

実際に
田んぼで農業を営むのは
小作人でした。

村のほとんどの人が
小作人で
お米を作りながら
お米は
ほとんど食べたことがない
人達でした。

出来たお米は
大半を
地主に年貢として
納めなくてはなりません。

そうしないと
田んぼを取り上げられてしまいます。

取り上げられると
もう生きていくことが出来ませんので
小作人は
地主に
絶対服従です。

大地主と
小作人の関係は
殿様と家来の関係のように
厳格なもので
小作人が
土下座して
大地主に面会する姿が
見られたものです。

この物語の
最初の登場人物は
何百年も
小作人として
働いてきた
家に生まれた
清左衛門(せいざえもん)です。

清左衛門は
家督を相続した
明治10年からの名前で
幼名を亀太郎と言います。

長男です。

兄弟は
他に
姉と弟がふたり
妹が3人です。

江戸時代の初めに
名字を名乗ることが禁止されていたので
清左衛門の家には
姓はありません。

それに代わる
屋号があり
カネセイと呼ばれていました。

村では
共同の仕事が多く
農機具が
誰のものかわかるように
名前を書くことになっていて
亀太郎の家では
清の漢字に
¬の記号が右肩に付いている
印を付けていました。
¬を一般的にカネと呼ぶので
カネセイと呼ばれていたのです。


3

亀太郎の父親は
もちろん清左衛門で
同じ名前です。

代々戸主が同じ名前を
名乗っていたのです。

亀太郎は
天保8年2月15日に生まれました。

西暦1837年の生まれです。

天保の大飢饉の最中です。

清左衛門の住んでいた
今津村では
大きな被害はなかったのですが
米価が高騰して
町民の餓死者が出た
大坂では大塩平八郎の乱が起こったりしました。

清左衛門の家では
もともと
お米など
食べていなかったので
それなりに
何とかやっていました。

小作の子供は
小作です。

小作の子供として生まれた
清兵衛は幼いときより
親譲りの努力家でした。

物心付いたときから
親の手伝いのために
野良仕事に出かけました。

その頃の誰もがそうであったように
朝は日の出を待たずに
仕事に出かけ
日が西の六甲の山並みの中に消えて
真っ暗になる頃家に帰ってきたのです。

亀太郎が
生まれた時には
父親の
妹がふたり
弟がひとりいました。

野良仕事に出かける時には
父親と母親
叔父さんとふたりの叔母さん
亀太郎と
上の姉とが
クワを持って
出かけました。

家には
父親の母親の
お祖母さんと
妹が
下の兄弟の
面倒を見ながら
家事をこなしていました。



4

清左衛門は
働くことができるようになった
12才になった時から
父親と同じように
野良仕事に出かけていました。

当時は
かぞえですので
10才の頃です。

まだまだ
力がなかった時から
働き始めたのです。

それまでは
寺子屋で
読み書きそろばんを
習っていました。

寺子屋の中でも
一番の
物覚えの良さでした。

働き始めると
それまでの
華奢な少年が
筋骨隆々の
体格になってきました。

仕事は
雨の日も
風の日も
かんかん照りの日も
木枯らしがビュービュー吹く日も
黙々と
仕事をしました。

今のように
雨の日のカッパもありません。

夏の雨の日はまだよいにしても
寒くなったことの
雨の日は大変でした。

雨が降らなくても
寒い風の吹く日は
満足な服もなく
手足にあかぎれを作って
辛い日々を送りました。

しかし働かなければ
生きていくことが出来なかったので
不満を言う
人は
清左衛門の家には
いませんでした。

5

江戸時代末期の
農作業は
人手だけが頼りです。

馬はもちろん牛はいません。

明治時代になって
今で言えばリース制度のようなもが
出来るまでは
小作農では牛はいません。

正月三が日は休みますが
4日からは
仕事です。

農閑期には
ワラ仕事が主です。

お米を作った残りの
ワラで
いろんなものを作ります。

ワラ縄・むしろ(ワラで作った畳のようなもの)
俵(ワラで作った容器)
簑(わらの背中だけの雨具)わらじ
菰(こも酒樽の保護のための袋のようなもの)などを
作っていました。

自家用ものもあるし
菰は造り酒屋に
買い取ってもらっていて
貴重な現金収入でした。

わら細工は
まずワラを
納屋から取り出し
ワラの不要な部分を
手で取りのぞきます。

特に売るようなものは
綺麗に取りのぞかないと
はねられてしまいます。

それから
縄やわらじのような
曲げて
作る物は
ワラ自体を
柔らかくしないと
折れてしまいます。

そこで
ワラを
木の台の上に載せて
木の棒で叩きます。

これが大変な仕事なのです。

冬になると
朝の早くから
コンコンと叩く音が
していました。

6

ワラを
叩いて
柔らかくすることを
「わらをかつ」と言います。

わらをかつ道具は
長年使いますので
叩くところが
摩耗して
すり減ってしまっています。

柔らかくした
ワラを
ワラ縄にするには
「縄を綯う(なわをなう)」と言います。

2束のワラを
手のひらに載せ
両手で擦るように
ねじるように
ワラに撚り(より)を与えます

強く撚りを与えた
ワラの束は
交差した手を
離すと
自然に
ふたつの束は
綯われます。

ワラの長さが
短くなってくると
ワラを
補給します。

言葉にすると
何か難しそうですが
やってみると
意外に簡単です。

小さな
亀太郎にも
出来ました。

小さな手ですので
大きな縄を
綯うことは出来ませんでしたが

何日か経つと
同じ太さの
同じように撚られた
ワラ縄を
作れるようになりました。

父親は
黙っていますが
頼もしく見ていました。

ワラ縄を
一日中
綯っていると
手が
真っ赤になって
痛くなりました。

痛いからといって
止めるわけにはいきません。

冬の寒い間は
毎日毎日していると
だんだん手の皮が
厚くなってきて
大丈夫になってきました。

7

冬場の農作業は
麦の世話です。

麦踏みです。

農作業の中では
楽な方ですが
寒風すさぶ
寒い日に
見渡す限りの
麦畑を
踏んで回るのは
苦です。

しっかり踏まないと
父親に
にらまれます。

収穫を少しでも
増やす目的です。

麦の株が
増えて
麦の穂が多く付くのです。

夏の農仕事に比べれば
汗はほとんどなく
かがむ仕事でもないので
腰も痛くないし
手を使うこともないので
あかぎれが
痛むこともないし
亀太郎は
そう思いました。

起きている間は
仕事です。


休みの日はもちろん
くつろぎの時間など
あるわけもありませんでした。

冬場は
日の出も遅く
日の入りも早いので
全体の仕事量は
少なくてすみます。

唯一の
やすらぎの時間である
寝る時間が増えるのです。

冬は
寒いけど
お布団の中は
暖かくて
気持ちよくて
うつらうつら
しながら
考えていました。

考えることは
仕事のことです。





8

まだまだ少年の
亀太郎ですので
将来のことや
結婚のことなど
考えるのが
現代では普通でしょう。

江戸時代は
そんなことを
考える
考えても意義がある
人など
一握りいるかいないかです。

小作の子は小作
長男に生まれた亀太郎は
結婚は出来るけど
相手は
親が決めるものです。

次男に生まれたら
一生結婚することなく
部家住(へやずみ)のままです。

今は
叔父さんが
もう
40才近いのに
同じ家に住んで
農業を手伝っています。

将来を
考えても
無駄としか言いようがないのです。

同じように
叔母さんも
ふたり同居していて
結婚することもないでしょう。

春になると
農作業は
一気に忙しくなります。

二毛作
(お米と裏作を年に2回収穫する農業の技法)を
している
この地域の農業は
無理があります。

麦が大きくなって
収穫して
その後
田植えをしなければならないのです。

今のような
機械がなく
満足な道具さえない時代に
それは大変でした。


9

桜が咲く頃から
本格的な農業の始まりです。

村総出で
道普請・川普請といって
村の道と
水路を
修復するのです。

今津の
近くには
江戸時代の
主要道の
山陽道:西国街道と
大坂から西宮の西国街道まで通じる
中国街道があります。

それらの街道は
幕府の力で
逐次修復されていました。

しかし
村の中を通る
里道は
村自体が
管理しています。

何もしないと
荒れ果てて
わけの分からぬ道となります。

川普請は
最も大事な
村の仕事です。

農業には
絶対に水が必要です。

近くの村と
共同して
水量の多い
武庫川から
取水しています。

川普請は
川の浚渫や掃除をするのですが
もっと重要なことがあります。

取水は
多くの村によって
管理されていて
村々に
水を配ることになります。

水を
分ける堰が
要所要所に設けられていて
その分け方が
正しいかどうか
調べることも
重要です。

コンクリートがなかった頃ですので
石で
作られている
堰も
多いのです。

貴重な
水を
分けるのです。

10

水利は
農業の要です。

今津の用水は
百間樋井組(ひゃっけんびゆぐみ)
と呼ばれています。

今の
宝塚市の高司辺りの
武庫川から
取水して
天井川の
仁川の下を掘り抜き
今津まで流れてきたものです。

400年以上前
作られて
数々の血なまぐさい騒動があって
現在の水路がありました。

それを守るために
亀太郎も
頑張っていたのです。

何しろ
人力で
仁川の川底に
樋を作るのです。

樋とは水を通す
パイプのようなものです。


大麦の穂が
茶色になった頃から
亀太郎は
忙殺されることになります。

日もながくなり
朝も早くなって
今の時間で言えば
午前4時頃に
起きて
まず
麦の刈り取りです。

麦は
稲に比べて
固い
重い
その割りには
収穫量は少ないのです。

腰が痛くなります。

麦の茎は
ストローにはなりますが
わら細工には
使えません。


11

麦を刈り取り
束にします。

稻藁でくくります。

束にして
家に持ち帰ります。

刈った後
すぐに
稲を植えるために準備が始まります。

田おこしからはじめます。

備中と呼ばれる
農機具です。

先に話した
千歯こぎと同じように
江戸時代の
農業の
大発明品でした。

それまでの
田おこしする器具は
鍬のようなものと
スコップのようなものが
ありました。

田んぼに
突き刺し
土を
ひっくり返します。

備中は
鉄で出来ていて
先が
3本に別れている
鍬の形をしています。

重くできていて
振り上げて
振り下ろすと
その重さで
先が尖っている
3本の鉄が
田んぼに突き刺さるのです。

突き刺さると
柄を
持ち上げると
テコの原理で
土が
ひっくり返るのです。

幼い
亀太郎には
重い備中を
振り上げて
振り下ろすのは
大変な労働です。

父親の
清左衛門は
深く大きく
田おこし出来るのを
横目で見ながら

汗を
拭き拭き
亀太郎は
頑張っていました

12

備中は
貴重な鉄で出来ていて
農機具の中では
高価なものでした。

当時の鉄は
粗悪品もあって
歯が折れたりして
鍛冶屋に
修理してもらうことも度々です。

柄の部分は
固い木で出来ていて
丈夫ですが
すり減って
細くなっていました。

細くなって
鉄の部分も
小さくなった備中を
亀太郎は
使っていました。

見渡す限りの
田んぼを
端から
並んで
田おこししても
日が暗くなるまでに
終わるわけもありません。

来る日も来る日も
田おこしです。

もちろん晴れの日もありますが
雨の日も
休むことは出来ません。

晴耕雨読というような
四文字熟語は
小作人には
ありません。

冬の間に作った
簑を背中に
笠を頭に載せても
雨水は
皮膚まで通ってきます。

初夏になって
寒いような時期ではありませんが
五月の雨は
寒い日もあります。

寒い日は
こたえます。

亀太郎は
汗の出る作業には
丁度良いと
やせ我慢で
母親には答えました。


13

何とか
時期までに
田おこしが完成すると
次は
代かき(しろかき)です。

水は
順番に
上から使われてきます。

一番下の
今津は
五月末です。

代かきは
田植えをし易いように
田んぼの土に
水を含ませ
柔らかくして
平にします。

言葉にすれば
農作業は
何でも簡単ですが
実際は
これは大変です。

まず田んぼに水を引き込むのですが
田んぼの縁にある
畦から
水が漏れないように
畦作りから始まります。

鍬で
田んぼの土を
塗り壁のように
畦に塗りつけます。

田おこしと違って
力任せでは
うまくできません。
ちょっとした技術が
必要なんです。

畦が出来ると
水が
田んぼの中に
一杯になります。

ながく農耕が続いていた
今津の田んぼは
農耕に適したように
水田・用水路が出来上がっていて
枕(用水路の入り口側の田んぼの呼び名)から水を引き込み
下(しも:枕とは反対方向の田んぼの水を流すところ)
に水を
排出できるように作られています。

水の管理が
容易になるように
作られています。

14

水の管理は
省力化されていても
代かきは
現代に言えば
「超たいへん」な仕事です。

農作業は
すべて
たいへんですが
代かきは
そんな仕事でした。

水のたまった
田んぼに
入ります。

長靴はありません。

わらじを
履く程度です。

普通は履きません。

田おこしで
ひっくり返した
土を
水と混ぜて
柔らかくして
平にするのが
代かきです。

当地での
道具の名前は
わかりませんが
「まんが」と呼ばれる
板状の枠に
下向きに
櫛のような出っ張りが付いた
器具を
前後に振って
土と水を混ぜます。

その後
板のようなものを
田んぼの上に
引っ張って
平にするのです。

田んぼには
水が張られていますので
木製で出来ている
農機具は
浮力が付いて
うまくいきません。

そこで
重く作られていて
前後にふったり
引っ張ったりするのは
苦労します。

小さい亀太郎には
もうたいへんです。

その上
田んぼに入ると
もっと嫌なことが起きます。



15

現代では
無農薬・有機栽培は
とても誉められた
農法だと
評価されています。

江戸時代明治時代の頃までは
効果的な
農薬などありませんでした。

信仰とか
祈祷とか
そう言うものに
頼っていたのです。

農薬がない時代に
田んぼの中は
生き物が
「うじゃうじゃ」です。

蚊やハエ・ネズミなど普通です。

ムカデ・ヒルなどの毒虫などもいます。

毒蛇のまむしで
命を落とすお百姓さんも
希ではありません。

「はめ」と呼ばれていて
見つけた時は
殺してしまうのが
ルールです。

水の張った田んぼの中に入ると
ヒルが
ついてしまいます。

傷みはありません。

かゆみもありません。

亀太郎は
ヒルが足についた時は
母親のところに行って
取ってもらいました。

取っても
血はすぐには止まりません。

「仕事は
しんどいけど
耐えられる。
ヒルは
慣れることが出来ない。

ハメでなくて
良かった」と
思って諦めました。

田んぼの近くにいる生き物は
困ったものばかりでもありません。

可愛いものも
いました。

亀太郎は
「ヒバリは
可愛いと思いました。

親鳥が
子思って
鳴く姿が
愛らしいと
見ていました。

16

春先には
空で止まりながら
ピーピーと鳴いて
卵を守る姿が
愛らしいと
思っていました。

それに
ヒバリは
悪いことをしないし
亀太郎は好きでした。

辛い代かきの仕事も
人海戦術で
何とか
田植えの時までに
出来上がりました。

亀太郎が
田おこし代かきをしているときに
父親の
清左衛門は
他の重要な仕事をしていました。


昨年の
お米の収穫の時に
多くの穂を
付けたお米を
種籾としておいてあります。

それを
木のタライに
水を入れて
種籾を
浸けます。

浮いた種籾は
使いません。

苗を作るために
特別に作った
「のしろ」に撒きます。

のしろにする田んぼは
水の便が一番良く
深田(ぬかるんでいる田んぼ)でもない
一番良田の枕に
作ります。

麦は作りません。

秋に
大きく田おこしして
水はけ用の
溝を作っておきます

4月になると
水を張って
代かきです。

まだまだ寒い
日に
代かきは
辛いです。

17

水が
まだまだ
水路に少ない時なので
川をせき止め
堰を開けたからといって
田んぼに水が
入ってきません。

そこで
水車(みずぐるま)を
使います。

木で出来ていて
一段低い水路の水を
少しだけ
上げて
のしろに
入れます。

備中が
お金を出して
買わなければならないのに対して
水車は
何とか
自作できる代物です。

細い木と
板を組み合わせて
作るのです。

今ある
水車は
先代の
清左衛門と
その弟(清左衛門の叔父さん)が
つくったもので
村の中では
よく上がると
有名でした。

川をせき止めた
ところに
水車を設置します。

水車の上に乗って
足で
水車を
回すのです。

落ちないように
竹の棒を
横に刺しておいて
手すりにします。

端から見ていると
水車の上に乗って
ゆっくりと
歩いているだけのように見えて
ゆったりしている風景のように
見えます。

しかしこれは
見るほど
ゆったりしていません。

どこまでも
続く
坂を
上るような
もので
終わりがありません。

休みもありません。

亀太郎は
まだまだ
体重が
軽くて
うまく回せませんでした。

あまりゆっくり回すと
水が
隙間から
流れて
全然上がってこないからです。


18

総領息子(家督を
譲ることが予定されていた息子)の亀太郎は
頑張らねばなりません。

長男だからといって
家督を相続できるとは
限りません。

実力と努力がない者は
家督の相続は出来ません。

家督を相続できないと
結婚など
絶対に出来ない時代です。

それを
亀太郎は
知っていました。

父親の
兄弟の
叔父さん叔母さんは
同じように働いても
結婚できずに
一生を終えます。

それだけではありません。

食事の内容や
住む部家
寝る布団まで
全く違います。

亀太郎は
努力していました。

そんな時に
亀太郎の
下の弟が
亡くなりました。

今の病名で言えば
敗血症でしょうか。

湿疹が
全身に出来て
傷口から
ばい菌が入って
高い熱が出て
あっという間に
亡くなったのです。

7才でした。

数え年ですので
満5才です。

誰もがそうであったように
栄養のあるものも
食べられず
衛生的な
住居もないことが
遠因であったことは
現代の目から見れば
歴然ですが
当時は
「寿命がなかった」と
諦めるしかありませんでした。

お寺さんに
簡単なお経を上げてもらいました。

清左衛門や母親は
小さなたるに遺体を入れて
野辺送りしました。

大変
悲しそうでした。



19

大正時代に
水道が
塩素殺菌される
時代がやってくるまで
新生児の死亡率は7パーセント
一歳まで乳児の死亡率は15パーセント
でした。

一歳過ぎても
体が弱い小児は
亡くなることが多かった時代です。

弟が
亡くなったからと言って
特別なことではなかったのです。

小児の場合は
お葬式も簡単に行われて
墓地に
土葬されます。

葬式があったからといって
仕事を
休むことは出来ません。

一番忙しい
田植えに向かって
仕事は進んでいきます。

のしろの
水の管理を
注意深く
清左衛門は
していました。

日照りが続くと
水の管理は
難しくなります。

村の管理する
池から
用水することもありました。

暑い時期が来ます。

代かきが
何とか出来上がってくると
のしろに
稲の苗が
大きく育ってきます。

一粒の稲から
ひとつの苗が
育ちます。

百間樋井組の中で
今津村に
田植えの順番が
やって来る日時が
決まると
苗取りが始まります。

20

苗取りは
農業の中で
唯一座ってする仕事です。

小柄な
力のない
亀太郎にも
その仕事が回ってきました。

小さな
木でできた椅子に座って
両手で
苗取りをします。

のしろの田んぼは
充分に柔らかく作られていて
苗の根を
痛めず
抜くことができるのです。

苗を引き抜き
水の中で
バシャバシャと
洗います。

ワラで
束ねます。

水の中に入れて
すくっと
立つくらいの
大きさです。

苗を取りながら
進んでいきます。

父親からは
そーっと
抜くのだと言われ
水の中で洗うのも
そーっとするんだと
それから
ワラで束ねる時も
そーっと
苗を痛めないようするんだとも
言われました。

いろんな仕事に
未熟な
亀太郎ですが
こんなに何度も
言われるのは
初めてでした。

食べずに置いておいた
貴重な
種籾です。

一粒の種が
何万倍のお米になるのです。

貧しい
小作の
清左衛門には
代わりの種籾は
ありません。

あったとしても
今更苗にできる時期を
失しているのです。

苗は
貴重です。

21

貴重な苗を
大事にしながら
苗取りを
朝から晩までしました。

現在の常識に従えば
朝から晩までと言えば
ながいと言っても
午前8時頃から6時頃でしょうか。

せれでも
昼一時間の休みを取っても
9時間です。

重労働ですので
9時間も働けば
充分に疲れていると思います。

江戸時代の末期のこの時代は
朝は朝星夜は夜星ですので
初夏のこの頃なら
午前4時前頃から
午後8時前までの働きです。

まだ暗い頃に
家を出て
薄明かりの中で仕事をして
7時過ぎに一度帰って
朝食を摂り
昼まで働き
短時間の昼寝後に
仕事に出かけます。
3時過ぎに
田んぼで
少し休んで
8時頃まで仕事です。

休む時間を入れなくも
13時間働いているのです。

重労働ですので
疲れます。

清左衛門が
大声で
「起床」と叫ぶと
朝が始まり
「終了」と
言うまで
働かなければなりません。

途中で
「休め」と
と言う言葉が
あると
休むことができますが
清左衛門自信が疲れていなければ
「休め」という言葉が
なかなか出てきません。

清左衛門は
なかなか疲れない
剛健な人間です。




22

亀太郎はまだ子供で
幼いのに
働きは
屈強の清左衛門と同じ時間
働かなければなりません。

家族一丸となって
働かなければ
お米はできない
できなければ
家族全員の食い扶持がなくなり
家族全員が
餓死する可能性があるのです。

家長たる清左衛門は
幼い自分の子供に
情けをかけることは
できなかったのです。

それが分かっている
亀太郎は
日々
労働に勤しんでいました。

そして
農業に一番忙しい
田植えがやってきました。

現在なら
8条植えの最新田植機で
サッサと
1町歩の田んぼも
半日で
完了です。

清左衛門は
1町ほどの田んぼを
小作していましたの
半日で終わりです。

(8条植えとは8筋一度に植えながら進んでいく田植機のことです。
1町歩とは江戸時代の広さの単位で
現在の約1h(ヘクタール)で
3000坪 約10000平方メートルです。)

田植機などない
この時代
田植えは
大変な仕事です。

稲の苗の束を
左手で持ち
その中の約5本を手にとって
中指に沿わしても
親指で
根を持ちます。

田んぼに
垂直に人指し指から差し込んでいきます。

手を離すと
苗が
田んぼに植わっているといことになります。

23

田植えは
一日中
中腰になって
足場の悪い田んぼを
後ずさりしながら
進んでいく
仕事です。

関東では
進みながら
田植えをするのですが
関西では
後ずさりしながら
足跡を
手で平にして
消しながら
植えていきます。

同じ日本でも
田植えの仕方が
大きく違うことを
清左衛門は
知るよしもなく
死ぬまで
知りませんでした。

旅行など
絶対に行けなかったので
知らなかったのです。

清左衛門の家では
働き手が
多いので
家人だけで田植えをすることができました。

5日かかりました。

家人が少ない家では
田植えを終えた村から
雇い入れるのです。

田植えをする人を
「さなえ」と言います。

早苗さんには
お金を払うか
労働で返すか
いずれにせよ
対価を払わなければなりません。

家人が多いことは
農業にとって
好都合ですので
子沢山は
農家の安定経営のためには
必須条件です。

田植えが済むと
仕事は
その年によって
大きく違います。

水の管理
稲の害虫や病気など
その年によって違うからです。

24

先々代の清左衛門が
戸主を務めていたころに
日照りが続いて
稲が
ほとんど枯れて
収穫できなかったことがあります。

田植えのあと
稲は少しやすんだあと
根が新しくなって
生気を取り戻します。

その後
気温と
水の管理が合えば
稲は
株はドンドン増えていきます。

ひとつの苗が
何株にも増えるのです。

ひとつの株から
ひとつの穂が出て
お米ができますから
株が増えなければなりません。

水の中に
稲がないと
株が増えません。

もちろん多すぎるのも
いけないことですが
絶対に
水が必要です。

稲作りには
豊かな経験と
運と
一層の努力が
必要です。

亀太郎が
働き始めた翌年は
少し日照りが続きました。

田んぼの枕(水を引き込む田んぼの名称)の
用水路を
せき止めても
水が
田んぼに入ってこなくなりました。

取水する
武庫川の
水も
清左衛門は
見に行きましたが
ほとんど枯れていました。

こんな時には
用水池から
水を引き込むことになります。

25

所々にある
用水池は
それぞれ決まっていて
清左衛門の村の
池は
少し上にあって
水を蓄えていました。

今津は
大昔は
武庫川の氾濫瀬で
石がごろごろの
ところでした。

この時代には
武庫川は
今の武庫川の位置にあって
JA東海道線国道2号線の間から
その支流の
枝川が
今津の方向に
流れていました。

流れていると言っても
JR東海道線以南は
大雨が降った時だけで
水が流れていて
平素は
石ころだけの
川底が見えるだけでした。

今津付近は
氾濫の時に流れてきた
大きな石が
山のように
そこらここらに
あるところでした。

そんなところですので
池になるところは
少し上にあったのです。

村人の
役に回った家が
水車を持って
池に赴き
水を
掻い出して
用水路に流します。

それを下流で
使うことになります。

水車を
回す役は
順番に回ってきて
清左衛門の家からも
叔父さんが
夜出かけていきました。

夜通し
回し続けることになります。

奇妙なのは
いくら
池を水を掻い出しても
少なくならないことでした。

26

その年は
7月に入ってから
雨が降り
水の管理は
容易になりました。

稲の株が増えて
みるみる大きくなっていきました。

それと同時に
雑草も
生えてきました。

現在なら
除草剤で
パッパですが
手で抜くしかありません。

明治時代後期には
回転中耕除草機と呼ばれる
回転する刃が
田んぼの表面を
かき回して
草を抜いていきます。

そんな便利なものが
発明されていない
江戸時代は
手で抜くしかありません。

どの農作業も
同じですが
人海戦術で
手で抜いていきます。

田植え後
はじめて抜く草を
1番草と
呼びます。

稲も
大きくなっていませんので
草も小さいです。

稲より
草の方が
よく伸びるのです。

大きい田んぼを
片方から
抜いていくのです。

暑い日
雨が降る日も
抜いて
終わった時
抜きはじめたところには
もう
2番草が
生えているのです。

27

二番草の生える時期になると
稲も大きくなって
少々の雑草にも
負けないようになっていましたが
「ひえ」が
生えてくるのです。

稗(ひえ)は
同じ稲科の植物です。

小さい時には
ほとんど
稲と同じです。

稗を取らずに
育てると
稗の方が
よく育ち
背が高くなって
稗ばかりの
収穫になります。

江戸時代の初めには
まだ未開墾の
荒れ地があった
枝川周辺には
稗だけを
植えた田んぼもありましたが
この時代には
稗は
作ることがありませんでした。

稗を
取りのぞく
稗取りも
するのです。

稗は
よくみると
お米とは違います。

初めての亀太郎は
母親に
詳しく教えてもらいました。

間違って
お米を
抜いたら大変ですので
心して聞きました。

稗は
葉っぱの中心に
白い線が
入っていて
葉っぱの付け根に
毛が生えていないのです。

大きくなると
はっきりとわかるのですが
小さい時は
これがわからないのです。

しかし
清左衛門は
ほとんど見ずに
稗だけを
抜いていくのです。

亀太郎は
凄いことだと
思いました。

28

まだまだ未熟な
亀太郎であろうと
熟練した清左衛門であろうと
もう真夏になっている
田んぼでの仕事は
暑いと言う一語に尽きます。

笠を被っていても
汗が噴き出してきます。

熱中症になる様な人は
その時代は
生きては行けません。

きっと子供の時に
死んでしまったでしょう。

強健な
体と心を
持っている人だけが
この時代に
農業に従事することが
できるのです。

汗を
拭くこともできない
かんかん照りの田んぼを
ぬかるんだ足下を気にかけながら
進んでいきます。

時々降る
夕立が
恋しくなるような
暑い日々が続くと
人間とは反対に
稲は
株が多くなって
背も高くなります。

当時の稲は
背が高い品種であると言われています。

2番草が終わると
最後の除草の時期なります。

3番草を
やっとこさ排除すると
充分に
株が増え
水の管理は
一段落します。

田んぼから水を
抜きます。

旧暦の
七夕の時期(年によりますが8月の末です)になると
天気は
安定して
農作業も
一休みの時期になります。

お盆の行事が
普通は
営まれます。

旧暦では
お盆は7月の15日で
新暦では
8月末か9月はじめの頃です。

迎え火とか
精霊流しとか
この時代は
全国的に行われていました。

清左衛門の家は
浄土真宗の信者です。

真宗の信者を
門徒と呼ばれていました。

門徒では
迷信を信じてはいけないという
教えがあって
お盆だからと言って
ほとんど何もしません。

亀太郎の
新仏(あらぼとけ)が
あった年ですが
いつものように
清左衛門の
母親が
毎日お灯明をつけ
正信経を
上げるだけの毎日です。

盆だからと言って
休むとか
特別の料理が出るとかいうことは
ありません。

29

他の宗派の人からは
『門徒もの知らず』と言われていましたが
清左衛門らは
『門徒もの入らず』と言っていました。

何ごとにも
お金をかけない
門徒の精神は
小作人には
もってこいだと思っていました。

盆だと言うことも
知らずに
働く
亀太郎には
そんなことはわかりませんでしたが
盆の頃には
仕事が
一段落する上
暑さも
少しは和らぎ
吹く風も涼しく感じることがありました。

そんな穏やかな時期が
ズーと続くことを
農民なら
誰もが願っていました。

稲が
花が咲く頃になってきました。

二百十日
二百二十日の頃は
稲にとっては
大事な時期になります。

毎年とは言いませんが
年によっては
大風や
大雨があるのです。

今のように
台風の予想など
全くない頃です。

江戸時代は
文献には
「颶風(ぐふう)」と呼ばれていた
台風に心配していたのです。

清左衛門らは
野分(のわき)と呼んでいました。

大きな風は
稲が倒れて
花が咲いた頃なら
全滅です。

実が充分に大きくなった頃でも
稲が倒れて
収穫に
支障が来します。

大雨が降ると
武庫川や枝川が
氾濫すると
決壊した堤防付近の
田んぼの収穫は
全くなくなってしまいます。

30

北東の風が吹くと
大風の
予兆と
先代の清左衛門から教えてもらったことが
ありました。

その年は
被害が出るほどの
大風もなく
堤防が決壊するほどの
大雨も降らず
病虫害もなく
平穏な
収穫を迎えました。

ここ何年
収穫は
少なくなっていたので
村人は喜んでいました。

新たな
問題が生じないように
早く収穫することが
新たな課題になりました。

充分に
穂が垂れて
黄色くなって
実が入った稲から
稲刈りが始まりました。

腰に前年とれた稻藁を付けて
右手に鎌を持って
田んぼに入りました。

鎌はいつもの平鎌ではなく
ノコギリ鎌と呼ばれる
ノコギリ状になっていて
柄に斜めに付いています。

左手で
一番左の稲を持ち
右手で引くように切断します。

一回で切れます。

次にその切れた稲を持ちながら
右の株を持ち
同じように切断します。

5株切ると
立ち上がって
稻藁を取って
切り取った束に
回しその後
稻藁を持って
切った束を
回します。

束を持って回して縄状になった稻藁を
回した束に
差し込み
結束完了です。

まだまだ子供の
亀太郎は
背がありませんので
回す所が
うまくできません。

江戸時代の稲は
背も高かったので
扱いにくかったのです。

稲刈りは
中腰の姿勢が続くうえ
両手がふさがっているので
腰が痛くなる
辛い仕事です。

31

収穫は嬉しいことですが
仕事自体は
きついです。

それに
季節外れの
北東の風が
吹き始めたのです。

浜では
波が高くなっているようです。

きっと
野分が近づいているのではと
清左衛門は
考えました。

家人に
伝えて
収穫を早めるよう
しました。

稲刈りした稲は
田んぼに作った
稲木(当地では「だて」と呼ばれる
竹で作ったもの)に
かけて
乾燥します。

家の近くの
稲については
家に持ち帰り
田んぼの
稲木は
平素より
寄せて
頑丈に作りました。

風は
徐々に
強くなってきました。

今の暦で言えば
10月の中旬に
台風は来ました。

板葺きの
清左衛門の家は
大きな風で
揺れました。

あちこちから
雨漏りして
いました。

稲が仕舞ってある
倉庫を
清左衛門は
守りました。

風が少し収まった時
村人は
枝川に向かいました。

もう流れが
一杯で
一部で
溢水(いっすい:みずがあふれていること)していました。

今津は
その年
洪水に見舞われてしまったのです。



32

現代の洪水は
泥水が流れ込んで
大変な目にあったいる映像が
よく映し出されているみたいですが
この当時の
溢水は
そんな泥水では
なかったのです。

洪水は
ズーッと水かさが増してくるのです。

時間が経つと
水は引いてしまいます。

流れがあると
稲が倒れて
被害が出ます。

水に浸かって
被害も出ます。

雨風が弱まったので
田んぼに行きました。

田んぼは
水に浸かっていました。

清左衛門の田んぼも
水が
出ていました。

付近の田んぼでは
稲木が倒れていましたが
清左衛門の田んぼでは
倒れていませんでした。

しっかりと
稲木を作ったのが
よかったみたいです。

穂先が
水に浸かっていましたが
すぐに水が引くと
何とかなると
思っていました。

清左衛門は
水がすぐはけるように
何とか頑張っていました。

一晩中
仕事をして
朝日が出た頃
水が
少なくなっていました。

清左衛門は
ホッとしました。

33

仕事を急ぎました。

稲を
千歯こぎによって
脱穀し
収穫が始まりました。

脱穀したお米を
籾(もみ)と言います。

籾は
発芽する能力があります。

来年に備えて
一番良く
できたところの
籾を置いておきます。

倉庫の奥に仕舞ってしまうのです。

残りの籾は
籾摺りをします。

籾を
その名の通り
擦って
籾殻を取りのぞくのです。

お米は
外が一番柔らかく
だんだん中にいくほど
硬くなっている構造になっています。

籾を外すのは
指でもできますが
そのようなことをしていては
時間が掛かりますので
柔らかい臼を使います。

粘土を固めて
作った
臼の中に入れて
回して
籾殻を取りのぞきます。

籾摺りを
「うっすり」と
言っていました。

籾殻を取ったお米を
玄米と言います。

籾殻と玄米は
混ざっているので
とおみで
風にさらして
より分けます。

玄米は
倉庫にむしろを敷いて
一時蓄えます。


34

現代の農業なら
刈り取りから脱穀まで
一度にしてしまうし
籾摺りは
機械ですぐです。

江戸時代の末期は
稲刈り
乾燥
脱穀
籾摺り
の工程は
どの工程をとっても
大変な仕事です。

手数のある
清左衛門の家でも
これらのことが終わるのは
夜明け前から
夜更け過ぎまで
せっせせっせと
仕事をしても
1ヶ月余は要します。

どの仕事をとっても
辛い仕事です。

特に
屋外ですることの多い仕事で
雨が降ると
お米を濡らしてしまうので
空模様に
気を配りながらの
仕事でした。

お米には等級があって
品質によって
価格は違います。

一度濡らしたお米や
小米(小さいお米)などが混ざったお米
乾燥度合いの悪いお米などの
品質の悪いお米は
価格は安くなり
年貢として納める時に
斟酌されます。

倉庫に
バラ積みで入れられた玄米は
村にある
1斗枡で
正確に測られ
ワラで作った
俵に入れられます。

4斗で
1俵となるのですが
なんかかんやと
理由を付けて
多めに入れなければなりません。



35

俵に入れた
玄米は
ワラ縄で
ぐるぐる巻にします。

コクゾウムシが付かないように
強く縛るのです。

そんなことしか
対抗手段がないことが
その縛る最大の
原因です。

現在のお米に
コクゾウムシが
混ざっていないので
知らないと思いますが
夏場
倉庫に仕舞ってある
俵から
ザァーザァーという音が
聞こえるのです。

屈強の若者が
俵を締めたからと言って
小さな
コクゾウムシがなくなるとは
おおよそ
考えられません。

大正時代になると
鉄でできた
テコの原理で
もっともっと強く
締める
俵締め器が
出るのですが
江戸時代のこの頃は
汗を出して
せっせと
締めるのでした。

俵に入れられた
お米が
倉庫に並びました。

地主から
年貢の量が
知らされたのです。

取れ高に合わせて
年貢の量が
決まります。

代官所の役人や
地主の番頭が
出来高を
算段していたのです。


36

中学の歴史の授業で
江戸時代の初めは
四公六民でしたが
暴れん坊将軍で有名な
徳川吉宗公が
五公五民に
引き上げられたと
講義を受けたことを
記憶しております。

江戸時代の末期ですので
基本は
五公五民だったと思います。

清左衛門が
農業を営んでいた
今津は
江戸時代初めは
尼崎藩領でしたが
幕末の頃は
天領となっていて
武庫之荘にある
代官所が支配していました。

幕府に
生産高の
五割を納めます。

残りの内おおかたを
地主に納めなければなりません。

小作人の取り分は
冬作の麦と
種籾の分と
頑張って作った収穫の増収分
でした。

ほとんどを
納めるのですが
それをしないと
取り上げられてしまいます。

田んぼを
散る上げられると
生活ができません。

今なら
別のところに
就職して
仕事もできますが
長年
農業を営んでいた
清左衛門には
際だった
技術があるわけでもなく
商才があるわけでもなく
資本があるわけでもありません。

田んぼがない
小作人は
飢え死にするしかないのです。

年貢が
どれほど多くても
納めるしかありません。



37

お米が取れると
麦を作り始めるまで
少しだけ余裕があって
その時間が
まつりです。

今津のある地方では
秋祭りが行われます。

神社の行事です。

今津の神社は
10月13日秋祭が行われます。

もちろん旧暦ですので
11月下旬
今の勤労感謝の日
あたりです。

まつりには
だんじりが繰り出します。

村人全員が
まつりに参加します。

村の行事の
事細かなことは
村の寄り合いで
決めることになっています。

もちろん
村の中にいる
地主の意見が
一番通るのですが
決められたとおり
実行するのは
清左衛門らの
つとめです。

だんじりに
乗って
太鼓を叩くのは
地主の子供です。

その他大勢のものは
だんじりを
担ぐ役です。

前々日に
神社の倉庫に
仕舞ってある
だんじりを
取り出します。

持ち手の丸太を
取付け
幕や旗提灯などを吊り下げます。

前日は
宵宮で
お酒が出ます。

家長が出席して
ただ酒を
飲めます。

清左衛門は
平素は
酒は飲みません。

飲めるような身分ではないと
思っていないし
酒を買うための
お金など
小作人には
ありません。

この時だけです。

逆に言えば
家長以外の人には
一年中
お酒など
飲む事はできません。

清左衛門は
家長ですので
ここぞとばかりに
飲もうとしましたが
平素は飲んでいないので
すぐに
酔いが回って
飲めませんでした。



38

今津には
福應神社・上野神社があって
ふたつの神社の
だんじりが
ぶつかり合うのが
まつりの
最高潮です。

平素
働いてばかりの
日々ですが
この日は
朝の間の仕事だけです。

朝食後は
神社に集まってまつりが始まりです。

戸主は
羽織を着て
前を歩くことになっています。

亀太郎は
担ぎ手になります。

まだまだ
背が低いので
ぶら下がるようなものですが
まつりに参加していました。


叔父さんは
担ぎ手の中心で
頑張っていました。

叔母さんや
お祖母さんは
地主さんの家の
台所で
村中の人の
昼ご飯と
夜ご飯の用意です。

三拍子の
太鼓が鳴り始めると
だんじりが
動き始めます。

村の道は
細いし
だんじりは
重いし
右に揺れ
左に揺れながら
村中の道を
何回も
巡るのです。

ふたつのだんじりが
会った時に
だんじりあわせが
行われます。

その時々で
違いますが
ここぞとばかりに
ぶつかり合わせることもありました。


39

平素
飲み慣れていない
お酒を飲んだ村人たちは
羽目を外すこともありますが
どんなことがあっても
酔って
地主さんに
絡むことはありません。

以前
絡んで
ひどい目にあった
小作人のことが
伝説になっているのです。

お酒を飲まない
世話役が付いていて
注意を払っているのです。

それくらい
地主と
小作人の間にはは
上下関係があります

亀太郎は
まだまだ子供ですから
飲酒できる環境には
なりません。

秋の
日が
西に落ち始めると
世話役は
だんじりを
神社に向けて
進みます。

秋の日はつるべ落とし
暗くなるまでに
神社の倉庫に
だんじりを仕舞うことになります。

おとなたちは
酔っぱらっていて
仕事ができませんので
飲まない
亀太郎の世代が
淡々と
片付けました。

倉庫にすべてをしまい込み
世話役が
扉を閉めたら
まつりは終わりです。

亀太郎は
名主の家によって
夕食をすませて
家に帰りました。

外で
服を脱いで
水で体を洗いました。

肩が
水にしみました。

すぐに横になって
寝ました。

父親の
清左衛門は
深酔いして
夜遅く
家に帰ってきました。




40

まつりの次の日は
休みではなく
仕事です。

雨ならば
ワラ仕事
天気なら
麦の準備です。

亀太郎は
翌日
肩が
赤く腫れて
腕が上がりません。

休むわけにはいかず
ぎこちなく仕事をしていました。

まつりが過ぎると
一年お仕事の大半は
終わったことになります。

麦作りのための
用意と
冬の野菜の用意が主ですが
農閑期の
冬には別の仕事があります。

村のための
川普請や
道普請
それに
自宅や納屋の
雨漏りの修理
農機具の修理
など
仕事は
山ほどあります。

今なら
他の人に頼むのが
普通ですが
現金がない
小作人は
何でもできなければ
やっていけません。

時に鍛冶や
大工
水道工
井戸掘り職人などこなしていたのです。

叔父さんは
特に大工仕事が
得意で
農閑期には
他の家にまで
助けていました。

亀太郎も
叔父さんの助手として
働きにいって
仕事を
覚えていました。


41

叔父さんの
大工としての技術は
相当なものです。

少しずつ
道具も蓄え
いつか
大工として
独り立ちする日を
夢見ていたのです。

しかし
大工仕事が
ズーッと
続くかどうか
心配でした。

叔父さんは
踏み切れないまま
へやずみとして
清左衛門の家に住んでいました。

今津は小さな村です。

歩いて行けるような
西宮宿は
少し大きな町です。

旅籠や
商家・職人の家などもありますが
大工仕事を
行う人が
町の中に住んでいて
仕事を
引き受けていました。

叔父さんに
仕事が回ってくるとは
思えなかったのです。

叔父さんは
何かにつけて
町に行って
仕事がないか
捜していました。

町に行く用事は
屎尿の回収と
野菜の販売です。

屎尿は
農業にとって
大事な
肥料です。

この時代は
野菜などと
交換で
町家から
屎尿を
もらって
田んぼの
「どつぼ」に
蓄えていたのです。

大八車に
桶
を積んで
運ぶ
あまりしたくない仕事です。

桶は
『たんご』と呼ばれていました。



42

たんごは
口が40cm弱
底が30cmほどの
逆円錐台の形をしていて
2本の角のような
板が出ていて
底に
縄を通して
それを
天秤棒で担いで
運びます。

たんごは
竹で
強く輪掛けされていて
屎尿が
漏れないようにしています。

不潔とか
不衛生などという
域を
現代ではズーッと越えた
超不衛生な
入れ物です。

うまく担がないと
屎尿が
パチャパチャと
波だって
飛び跳ねてきます。

大八車に積んだら
何しろ
悪路ですから
飛び散ってしまいます。

臭いはもとより
いろんなものが
飛んできます。

そんな悪い環境なんです。

だからといって
やらないわけにはいきません。

お米や
他の作物には
肥料が必要です。

今では
植物の栄養素は
窒素リン酸カリの
三大栄養素と
他に10種の栄養素が
必要なことが分かっていますが
当時は
そんなことがわかるはずもなく
経験に頼っていました。

お米には
干し鰯が効果的なことが
分かっていました。

今津の
港にも
鰯が上がって
それを
干して
売っていました。

現金が
必要ですので
使えるかどうかは
小作人の
資金力です。














43

屎尿の
肥料を
「下肥:しもごえ」と
呼んでいます。

下肥は
少し置いてから
田んぼに撒きます。

置いておく施設が
「土壺:どつぼ」です。

現代でも
その言葉が残っていて
「土壺にはまる」と
よく聞きます。

土壺は
関西の方言で
関東では
野壺と言うらしいのですが
いずれにせよ
肥だめです。

雨水が入って
大事な
屎尿が
薄まったり
流失しないように
屋根が付いているものもあります。

土壺には
屎尿の中の
浮く成分が
浮いていて
あたかも
地面が
そこにあるように
見えるのです。

それを
見誤って
土壺に
落ちる人も
年に
何人かいます。

大人なら
亡くなるようなこともないですが
子供なら
亡くなることも
あったかもしれません。

そんな危険な
土壺が
田んぼのあちこちに
ありました。

亀太郎は
親によーく
言い聞かせられていましたので
そのようなことは
ありませんでした。


44

農閑期の
農作業は
それ程でもありません。

夏の暑さに比べれば
冬の寒さは
仕事をしていると
苦になりません。

夏に
日射病(今は熱中症と呼んでいるようですが)で
倒れることが
あっても
冬の寒さで
倒れる人は
いませんでした。

こうして
一年が終わる
年末が来ます。

年末には
神社にしめ縄をかけて
30日には
餅をついて
31日には
おせちを作ります。

大晦日に
年越しそばを食べるような習慣は
ありません。

ご仏壇
床の間
かまど
倉庫に
お餅を供えて
正月を迎えます。

お寺では
除夜の鐘が
今と同じように
ならされますが
それを
起きて聞く人など
この時代には
ほとんどいません。

正月が開けると
3日までは
朝の間の仕事は
ありません。

1日は
雨戸も
開けることはありません。

もちろん
外にある便所に行くために
玄関の扉は開けますが
『福が逃げる』と言って
開け放すことはありませんでした。



45

正月元旦は
今で言う
寝正月です。

日が昇ってから
雑煮を作ります。

お餅と
大根が入ってもので
年末に仕込んだ
味噌仕立てになっています。

まず
ご仏壇と
かまどに
お供えしたあと
みんなで
食べます。

各自のお膳を
板間に出して
全員
正座して
家長である
清左衛門が
「おめでとう」というと
他の者は
口を揃えて
「おめでとうございます。」と
唱和して
食事が始まります。

いつもの食事の時と同じように
言葉はありません。

黙って
お茶碗を出すと
おかわりをしてくれます。

もう
お腹いっぱいになれば
お湯を入れて
お茶碗を
洗って
自前のお膳に
仕舞い込みます。

昼ご飯や
夜ご飯は
お湯を沸かすくらいで
他の用事はしません。

作り置きの
おせち料理を
黙々と食べます。

おせち料理と言っても
家で採れた黒豆
肥料にも使う干し鰯の煮物(田作り)
お餅
いつも野菜の煮物
くらいのものです。
























46

元旦は
何もせずに
一日が終わります。

2日目は
事始めです。

新しい下駄を下ろして
小作人の清左衛門は
地主様のところに
年始の挨拶に出かけました。

近くの
五人組の仲間と
一緒に出かけました。

五人組は
江戸時代のはじめにできた
組織のひとつで
連帯責任で
年貢を納めさせたり
悪い企てをしないか
相互に見張りをさせる組織だったのです。

そんな組織ですけど
ぎりぎりの生活をしていた
小作人にとっては
相互扶助組織として
この時代には
なっていました。

年始に行くと
地主様の中には
ひとそれぞれで
挨拶だけで終わる者もいるし
御神酒を振る舞ってくれる
ありがたい
地主もいました。

そんな地主様には
一番あとに挨拶に行って
ただ酒を
たんと飲んで
清左衛門は家に帰りました。

家人は
うらやましそうな目で見ていましたが
それだけのことです。

3日になると
正月最後となるので
年中働いている
家人たちは
手持ちぶさたになってきます。

早めから
お風呂をたてて
順番に入って
早めに
寝ます。

そして
仕事が休める
正月は
終わってしまいました。


47

正月が終わると
また一年の始まりです。

天気が
毎年同じなら
全く同じ
同じ年になるのですが
江戸時代は
自然災害が
多発した時代でした。

小氷河期が
やって来たと言われた時代でした。

今のように
冷害に強い品種改良などもなしに
冷害がやってくるので
農業に従事している
人間は
命を脅かされるくらい
大変なことでした。

清左衛門の一日は
1年365日の内
正月三ヶ日と
まつりの時
村の伊勢講の日以外の
360日は
同じです。

朝は
まだ暗い内から起きます。

現代では
夜でも
電気や
街灯があって
明るいですが
江戸時代は
夜は
月や星が出ていないと
真っ暗です。

日の出の前の
薄明かりを頼りに
起きるのです。

夏なら3時頃
真冬なら
6時頃です。

一番最初に
清左衛門が起きて
外の様子をうかがってから
「起床」の声を上げます。

就寝が早いので
40才を越えた
清左衛門は
早く目が覚めるのです。

ティーンエイジャーの
亀太郎には
まだまだ
寝たりませんが
目をすりすりしながら
服を着替えて
出かけました。

まだまだ暗い夜道を
田んぼに向かって歩いて行くのです。

間違って
水路や
どつぼに
落ちないように
気を付けながら
歩いて行きました。



48

起きて
朝食までの仕事を
当地では
「朝の間の仕事」仕事と言います。

慣用句の
「あさめしまえ:朝飯前」の
語源となる様な
仕事です。

とにかく
朝起き縦の空腹時
重労働は
こたえるし
薄明かりの中する仕事ですし
簡単な仕事が
多いのです。

家長の
清左衛門は
そんなところに気配りしていました。

日が
充分に出たころ
家に帰ります。

外の
井戸で
手足と
顔を洗います。

汗が出る時には
服を脱いで
拭き取ります。

家に入って
清左衛門の母親と
亀太郎の姉が作った朝食を食べます。

朝食は
いつも同じです。
畑で取れた野菜の
漬け物と
煮物
それに
麦飯です。

漬け物は
大根が主ですが
キュウリや
なすなど
漬けられるものなら
何でも
漬けて食材にします。

煮物は
単に
水で炊いただけのもので
出汁を使っているわけでもなし
油揚げなどを入れて
美味しくなどしていません。

醤油や
味噌など
全く使っていません。

塩味のみです。

麦飯は
江戸時代の調理法では
誠に食べにくいものでした。

麦は
外側ほど硬くなっていて
お米のように
簡単に精白できません。

江戸時代は
麦を
水に浸けてから
砕いて
それから炊きます。

麦特有の
臭い(一般的には臭いと言います)と
ボソボソする
麦飯です。

清左衛門一家は
この食事になれているというか
食べられること自体を
感謝していました。


49

食べることに感謝の意味もあって
食事中は
無言です。

音を出して
食べるのは
何の問題もありませんが
「頂きます」
「ごちそうさまでした」
以外の言葉は
言うことはできません。

「麦ご飯は
美味しくない」
と言うようなことを
言う人間は
この時代にはいませんが
もし言ったら
即座に
その場を追い出されて
食事は
なしになります。

それと反対に
「おいしい」と言っても
無駄口と言うことで
家長の
叱責の
対象となります。

食事を作っている
人達の
ただ報いとなるのは
綺麗に
釜の中のものが
なくなったという事実です。

各自の食事は
まず
お膳を出すことから始まります。

お膳とは
箱のようなもので
清左衛門の家では
木でできた
粗末な箱です。

上に蓋が付いていて
開けて
茶碗と
お箸を出します。

家長の
清左衛門以外は
自分で出すのが
決まりです。

亀太郎も
自分のお膳を
棚から取り出し
自分の席に
持っていきます。

中から
茶碗を出し
姉のところに持っていき
ご飯を
よそってもらいます。

席について
清左衛門の
「頂きます」の声のあと
みんなで
「頂きます」と
唱和して
食事が開始されます。






50

現代では
よく噛んで
ゆっくり食べるのが
最善ですが
この時代の
食事は
早飯です。

早く食べて仕事をすると言うことと
早く食べないと自分の分がなくなると言う意味があります。

その日に焚く
麦飯の量は
決まっています。

1年に食べられる
麦やお米の量は
倉に仕舞ってある
量でしかありません。

家長たるもの
その量を
固く守らないと
いけません。

当然の如く
早く食べた方が
量が食べられます。

成人男子は
一日に
1升の麦飯を
当然の如く
食べたようです。

肉体労働ですから
そのくらいの量を食べないと
仕事ができないのでしょう。

どんぶり茶碗で
一気に
かき込みます。

おかずは
野菜の煮物と
漬け物です。

山のように
大きな皿に盛ってある
漬け物も
みるみるうちに
なくなってしまいます。

亀太郎は
まだまだ小さいので
たくさんは食べられません。

早飯も
自分は
8分のできたと
思っていました。

清左衛門は
充分に食べると
冬なら温かいお湯を
夏なら
湯冷ましを
お茶碗に入れて
最後の漬け物で
ゆっくりと洗った後
その漬け物と
水を飲んでしまいます。

そして
家人たちが
食べ終えたのを
確認してから
「ごちそうさま」と
と言って
食事を終えます。

家人たちは
その声を聞くと
各々
食事を終え
「ごちそうさま」と
唱和した後
お膳の中に
お茶碗と
箸を入れて
蓋をし
棚に仕舞い込みます。







51

お茶碗や箸を
洗うことはありません。

油の入った料理や
脂の多い食材を
扱うことなどない時代ですし
水道というものもない時代に
水で洗って
余計に食中毒を起こす
菌を付ける恐れがあるので
洗わないのは
当然のことです。

この習慣がなくなるのは
水道が
設備される頃に
終わります。

食後は
しばらく
そのままいます。

何もせずに
休息する時間になります。

と言っても
ほんの数分ですが
用をたすまでの
時間です。

外の
便所に行って
用をたします。

そのあと
手洗い鉢で
手を洗って
仕事に出かけます。

早飯が
芸の内なら
早くそも
芸の内です。

便秘の人なら
大変困るところですが
野菜が
ほとんど主食というくらい
食べていますので
便秘の人は
少ないみたいです。

トイレをサッサと終えます。

食後
歯を洗わないのかという
疑問がわきますが
それは
朝食前に
行っています。

手水(ちょうず)と言って
顔を洗う時に
一緒に
楊子(ようじ)で
歯も洗っています。

楊は
ヤナギのことで
ヤナギの枝を
叩いて
あるいは
噛んで
房のようにした
ものが
楊子です。

現代で言う
歯ブラシです。



52

歯ブラシは
ヤナギの枝なら
歯磨き粉は
目の細かい
砂というか
粘土と言ったらいいか
そんなものを使います。

その砂は
六甲山の麓で取れて
売りに子供が
売りに来ていました。

砂だけでは
さっぱりした感覚が出ないので
ハッカとか
唐辛子・丁字などを加えたものも
ありました。

他に
塩で
磨く習慣がありました。

小作人の
清左衛門の家では
塩で磨くなど
考えられませんので
砂だけの
もので
歯磨きしていました。

甘いものなど
食べたことがない
亀太郎の歯
虫歯などありませんでした。

今で言えば
歯石は
ありましたが、
ほどほどの歯並びでした。

亀太郎は
6歳の時に
母親に言われて
楊子を
使うようになりました。

朝食後の一服が過ぎ
用をたしたあと
清左衛門は
「作業」の
声を上げます。

家人たちは
一斉に
用意して
田んぼに向かいます。

夏なら午前7時頃
冬なら午前8時頃の作業開始です。

軽作業で
暑くない時期なら
昼まで
働きづめです。

時計がないので
お寺の鐘が
正午を告げると
昼になります。

お昼になると
ぞろぞろと
揃って
家に帰ります。

家に帰ると
水で
手足をゆすいで
朝食と同じように
食事を摂ります。

暑い時期なら
服を脱いで
体を
水で濡らした
手ぬぐいで
拭きます。


53

朝食と
同じように
食事は進みます。

食事のメニューも
変わりません。

静かに
食事を摂ったあと
夏以外なら
ほんの一瞬の休憩のあと
「作業」の声です。

夏なら
昼寝です。

家族揃って
昼寝です。

亀太郎は
仕事をしていない子供の時は
昼寝の時間が
嫌いでした。

眠くもないのに
横になって
動いてはいけないのです。

たぶん
30分弱の
この時間が
嫌でした。

しかし仕事をしはじめると
この時間が
恋しくなります。

朝が早く
しんどい仕事を
長時間続けていると
眠たくなります。

亀太郎は
昼寝の
ありがたみが
わかりました。

眠ったあとは
体が
シャキッとなって
仕事が
またできました。

昼寝の
長寝は
禁物です。

余計に
だるくなるので
清左衛門は
遠慮もなく
「作業」の
声が出ます。

また仕事です。

夏なら
一番暑くなる
午後の仕事は
苦痛です。

そんな時に
清左衛門は
「休め」の声がかかります。

各々
田んぼから上がって
木陰で
一服して
家から持ってきた
湯冷ましを
飲みます。


54

昼からは時間が長い
特に夏場は
時間が長い
時計がなくても
それはわかります。

しんどい仕事が多い
夏場は
時間が長く感じられます。

お天道様(おてんとさま)は
容易に
六甲の山並みに沈んでくれません。

西日は
この上なく暑く
照り返しが
過ぎます。

西に向かって
仕事をする人などいません。

みんな東に向かって
仕事をしますが
背中が
暑いのです。

それまでに充分に
日焼けしていますので
赤く腫れ上がると言うことは
ないにしても
暑いものは暑いです。

そこで
3時頃の小休止があります。

亀太郎のお祖母さんが
おやつを持ってきてくれます。

「やれやれ」と言って
田んぼから上がって
小休止です。

木陰を捜して
一服して
おやつをたべます。

おやつと言っても
ふかし芋とか
干し飯
(著者は詳細はわかりません)
少し食べて
疲労を
回復させました。

夕日が
六甲の山並みに沈んでも
明るい内は
帰ることができません。

薄暗くなって
帰り始めます。

「作業終了」の
声とともに
家路に向かいます。



55

家に着く頃には
とっぷり暮れています。

同じように外で
手足をゆすいで
中に入ります。

夏なら
3日に1回くらいで
お風呂が
たてられるのです。

清左衛門は
家長ですので
一番に入ることになっていて
食事前に
入ります。

次に
叔父さんが入って
食事になります。

当時のお風呂は
石けんなどありませんので
単に入って
出るだけ
外で
かけ湯をした時に
コシコシと洗う程度です。

そーっと湯船に浸かって
出るだけです。

お風呂のない日は
夏なら
念入りに
水で
体を拭きます。

家長以外は
ついでに
服も
洗って
掛けておきます。

夕食も
メニューは
同じです。

ただ違っているのは
家長の
清左衛門だけ
何か1品多いのです。




56

一品は
魚である場合が
多いです。

今津の浜で
取れた
雑魚の煮物である場合が
多かったようです。

家族全員
魚が付く時は
一番大きなものが
家長になります。

今では
考えられないことでしょうが
封建時代の
ことなので
別に
当たり前のことです。

何度も書いていますが
家を
放り出されると
生活はできません。

死ぬしかない
そんな状況であるので
家という組織に
しがみつきます。

家を守るためには
少々の犠牲は
やむを得ないと
考えていたのです。

例によって
静かに食事を済ますと
冬なら
夜なべがありますが
夏には
遅くまで働いているので
ありません。

しばしの休息のち
就寝となります。

夜起きていると
灯明が要ります。

当時は
菜種油に
灯芯を付けて
火を付けていました。

油は
高価ですので
無駄に使うことはできません。

サッサと寝るのが
一番の節約です。


57

休息は
寝る時だけですので
家長に
就寝の挨拶
「お父様
おやすみなさい。」と言って
亀太郎は
床につきます。

冬なら
布団の中が
暖まるまで
しばらく
手足をコシコシしていますが
疲れのため寝てしまいます。

夏なら
蚊帳の中に
団扇(うちわ)を使って
入り込み
中で
パタパタとしながら
眠り込んでしまいます。

朝まで
目が覚めなければ
良いのですが
やっぱり
目が覚めてしまいます。

覚めたくないのですが
覚めてしまうのです。

冬なら
寒いのに
用をたしに
行かなければなりません。

何しろ
真っ暗です。

お月様が出ている夜なら
隙間から
月明かりが
入り込んでいるのですが
新月の頃や
雨天なら
何の光もなく
手で探りながら
近くの弟を
踏まないように
木戸まで
行きます。

かんぬきを開けて
木戸を開き
外の便所まで
歩いて行きます。

外の
便所の
肥えタンゴに
小便をして
帰ります。

もしこれが
大の方だったら
それはそれは
大変です。

58

読者の中には
漆黒の闇など
経験したことが
ない方は
電灯のない時代の
夜を
想像できないと思います。

ろうそくや
灯明が
明るく感じるのは
その暗闇のおかげです。

真っ暗なところを
夜ウロウロするのは
怖いです。

どこかにぶつけないかという
怖さと
物の怪が
出ないかという怖さです。

亀太郎は
小さい時は
母に頼んで
行っていました。

みんなと一緒に
仕事ができるようになった
12歳(数えなので10歳)からは
怖くても
頼むことなどできません。

布団の中で
ジッと我慢して
誰か行かないかを
見ているのです。

またそうならないために
夕食には
水分を
取ることを
控えていました。

早く
夜が明けないかと
願ったこともあります。

そして
「起床」の
声が聞こえて
ながい
一日が始まります。




この時代の
結婚は
遅いのが
普通です。

とくに
小作人の結婚は
おそいです。

この頃の農業は
人手だけが頼りです。

子供が大きくなって
働き手になった時
それを失いたくないので
結婚は
遅くなることになります。

59

結婚が
遅くなる理由には
もうひとつあります。

当時は
兄弟の中で
男子が結婚できるのは
ひとりだけです。

ふたり結婚させると
家の数が増えてます。

家の数が増えても
生産手段の田んぼの広さは
増えませんので
お互いに
共倒れとなってしまいます。

家の数を増やすことを
「田分け者(たわけもの)」と言って
当時としては
絶対に守るべき
掟だったのです。

兄弟の中で
一番兄に
普通は
相続する権利があります。

しかし
長男が
病弱だとか
仕事に実が入らないとか
人望がない場合は
そのような者に
家督を譲って
家人全員を
路頭に迷わすことなど
あってはならないと
すべての人は
考えていました。

若くして
結婚すると
人格が
急変することや
急死することが
あるので
小作人は
遅く結婚するのが
常識です。

亀太郎が
29才になった時
隣村の
「ます」と結婚することになります。

見合いでもなく
親が決めたものです。

結婚する当日まで
遠目に見たことがあっても
話し合ったことがありません。

当時の
女性の名前は
ひらがなで
二文字が断然多く
呼ぶ時には
「お」をつけて
呼びます。

三文字になって
呼びやすいというのが
理由です。

妻となる
ますは
おますと呼ばれることになります。




60

おますは
背が高い
大柄の女性です。

代々
清左衛門の家では
大柄の女性を
結婚相手に選んでいます。

非常に
過酷な
仕事をこなすためには
頑丈な
体が必要です。

華奢な
女性より
精悍な女性の方が
家を安泰にする力は
大きいと考えるのは
普通の考えです。

清左衛門も
大柄です。

亀太郎は
仕事を始めた時には
ひ弱な少年でしたが
二十歳の頃には
村一番の背でした。

同じ長さの
備中(田おこしのために使う
三本の歯のクワ状のもの)を持っていても
小さく見えるくらいでした。

大柄な
男に
大柄の
女性が結婚したのは
文久3年のことです。

明治維新が
もうすぐという時期でした。

亀太郎31才
おますは22才のことです。

小作人の
娘が
家を出る方法は
結婚以外ありません。

選ばれた人だけできる
結婚です。

結婚するのが良いのか
結婚しないのが
良いのかは
人生最後にならないと
わかりませんが
さほど変わらないと言うことが
この時代の常識です。

しかし親に結婚と言われれば
結婚するしかないのです。


61

結婚するとなると
貧乏な小作人でも
一応
結納と言うことになります。

形ばかりの
のしアワビなど
縁起物を
少々です。

結婚式は
夜です。

今津の隣村
津門村の出身で
長女です。

嫁入り道具とともに
はじめて
清左衛門の家に入ってきます。

1Kmほどの道を
もちろん歩いて
清左右衛門の家に向かいます。

清左衛門が出迎えます。

男性は
羽織袴
女性は
紋付きです。

今で言えば
フォーマルのどんな席でも
羽織1枚で
対応できるのです。

貧乏な小作人には
ありがたい習わしですが
羽織自体も
小作人とっては
高価なものです。

提灯が飾られ
高価なろうそくに
火が付けられます。

謡曲が
上手な親戚が
謡って
盛り上げます。

「高砂」が
狭い家に
響き渡り
そのあと
食事となります。

いつもの
麦ご飯と違って
その日は
白ご飯となります。

お頭付の魚も振る舞われて
相当な贅沢です。

江戸時代も
終わりの頃となると
見栄が
そんな風な習慣を
定着させたのかも知れません。

62

結婚式に
身分をわきまえない
贅沢をした分
働かなければなりません。

亀太郎は
宮水運びをはじめたのです。

幕末それから
明治維新
時代が大きく変革していき
新しい
富裕層が
出来上がってきます。

酒も
一般的になってきて
飲むのが当たり前のような
時代がやってくるのです。

清左衛門の家は
今津にあります。

今津は
清酒で名高い
灘五郷のひとつです。

今津には
今も
ワンカップ大関で有名な
大関酒造が
今もありますが
創立は300年前です。

江戸の末期は
今津の浜から
江戸への物流が便利なため
清酒作りは
盛んになっていました。

特に
灘五郷の
清酒が
日本中に
有名になるのは
宮水のおかげです。

宮水は
熱心な酒造家が
宮水が
酒作りに
適した水であることを
亀太郎が
生まれた頃に
発見しました。

宮水は
もともとは
今津村の隣村である
西宮の水ということです。

亀太郎が
結婚した頃になると
宮水の
効能は
知れ渡り
今津の昔からある
酒蔵にも
宮水で作ることになります。









63

宮水は
夙川の伏流水です。

夙川は
西宮村の
向こう側にあって
今津郷では
井戸を掘っても
宮水が出ません。

軟水がでてしまうのです。

お酒を造るためには
適度な
硬水が必要です。

と言うわけで
宮水を
今津郷の造り酒屋さんは
運んでくることになります。

その水を
運ぶのを
今津の小作人は
請け負うことになります。

酒造りは
ちょうど農閑期なので
「もってこい」の
仕事でした。

大八車に
木桶をつんで
西宮の
宮水の出る井戸から
水を買って
今津の村の外れにある
造り酒屋に
運んでくるのです。

途中川をふたつ
渡らなければなりません。

大八車は
ゴムタイヤの付いた
リヤカーとは
全く違います。

木のホイールに
鉄の輪が付いていている
荷車です。

車輪の幅は
細いのです。

そして道は
舗装など絶対にない
地道です。

これらの条件で
大八車に
重い水を載せて運ぶと
どうなるかは
すぐにわかります。

64

草の生えた
穴ぼこの
地道を
鉄の輪の
車輪が行きます。

重い荷物を積んだ
大八車は
右に揺れ
左に揺れ
よろよろと
進んでいきます。

しかし
亀太郎は
諦めません。

おますが
後ろを
押してくれているのです。

最初の一回は
とても大変でした。

橋から
落ちそうになりました。

距離にして
2Kmほどです。

往復で
普通に歩けば
1時間ほどです。

荷物を積んでいないなら
大八車を
引っ張って
1時間半ほどかかります。

水を載せていると
どんなに力を入れても
2時間は掛かります。

積んだり下ろしたりする時間も入れると
3時間程度かかってしまいます。

それに
非常に疲れます。

1日に
屈強な小作人でも
2回程度
欲を出しても
3回が限度です。

亀太郎も
最初はそうでした。




65

結婚できたのは
将来は
家督を継いで
清左衛門になると言うことになります。

亀太郎は
それを
自覚していました。

そこで
頑張っていました。

宮水運びも
頑張ることにしました。

そのことを
おますに言うと
「手伝う」と
答えてくれました。

頑強な
男でも
大変なのに
女性の
おますには
無理で
すぐに音を上げると
亀太郎は
はじめは思っていました。

大八車の
前のかじ棒をもつ者と
後ろを押す者がいます。

普通は
前の者の方が
大変だと思っていますでしょうが
それが
後ろで押す者も
大変なんです。

前の
歩調に会わせて
押さなければならないし
右に振られ
左に振られて
振り回されるのです。

後ろを押すのは
大変なんです。

その後ろを
かって出たのが
おますです。



66

おますが手伝った最初に日
前掛けに
いつもの野良着
わらじのいでたちです。

結婚するまで
男たちと同じように
田んぼを耕していたので
体力には
自信がありました。

亀太郎と
おますは
声を掛け合うこともなしに
大八車を
西宮に
向かって進み始めました。

夜も明けあらぬ
未明です。

暗い道を
何も乗せていない
大八車は
西宮へ
急ぎました。

冬の朝は
遅く
着いた時も
薄くらいでした。

井戸番に
手形を出してから
井戸から水を
汲み上げて
桶に
入れました。

浅い井戸ですから
すぐに
一杯になって
蓋をして
今津に帰り始めました。

その日は
天気が続いていたので
道は乾いていて
車輪を
取られることも少なく
1番目の川までやって来ました。

川は
天井川で
坂を上らなければなりません。

おますは
大八車を力一杯押しました。

亀太郎は
その力を得て
サッと上ることができました。

2番目の川も
サッサと乗り越え
木の橋を
渡り
坂道を
走るように
下りていきました。

亀太郎も
おますも
大八車に
付いていきました。







67

坂を下りて
しばらく
草の生えた
地道を
進むと
酒蔵に着きます。

酒蔵で
水を下ろして
大福帳に記入してもらって
新しい手形をもらって
もう一度
西宮の井戸に向かいます。

亀太郎は
おますを見ました。

肩で
息をしていて
少し疲れているように
見えました。

黙って
大八車の後ろを
押していました。

亀太郎ひとりの時より
早いことだけは確かです。

それに楽です。

坂を上る時など
本当に楽でした。

亀太郎は
大八車の
後ろを
押したことがありますので
相当
おますは
疲れているだろうと
思っていましたが
何も言いませんでした。

二度目の水を運んだ時には
まだ昼にはなっていませんでしたが
お昼にすることにして
家に帰りました。

外で
ふたりは
手足をゆすいだときに
亀太郎は
「疲れた」と聞きました。

おますは
「疲れていません」と
少し笑顔で
答えました。

68

その時
亀太郎とおますは
始めて心が
通じたように感じました。

言葉には出しませんが
笑顔がそれを意味していることを
お互いに思いました。

昼食を
食べて
大八車を
引っ張りました。

4回目に
酒蔵に着いた時は
まだ
西の空の太陽は
高かった。

亀太郎は
「今日はこれで終わりにしよう」と
おますに言いました。

おますは
「まだ明るいので
行けます」と
答えたのです。

亀太郎は
その言葉を聞いて
少し迷いました。

普通の人なら
一日2回なのに
もう
今日は
4回も運んだので
充分だと考えられます。

亀太郎は
おますの
真剣な目を見て
「もう一回行くか」といって
早足で
井戸に向かいました。

井戸に着いた時には
もう薄暗くなっていて
井戸水を
桶に入れて
帰り始めた頃には
暗くなっていました。

初冬の
日は
つるべ落とし
すぐに真っ暗になりました。

その日は
一三夜で
月明かりで
酒蔵まで向かいました。

橋から落ちないように
ゆっくりと進みました・







69

後ろの
おますに
亀太郎は
「ゆっくり」と
言いました。

おますは
言われたとおり
ゆっくり押しました。

さかも
スピードが出ないように
大八車を
引っ張りました。

ゆっくり
月明かりの中を進んで
酒蔵に着きました。

酒蔵の門は
仕舞っていましたが
言って開けてもらい
水を納め
大福帳に書いて
手形をもらって
帰りました。

酒蔵の番頭さんが
「夜まで大変だ」と
言っていました。

家に着く頃には
月は
高いところまで
あがっていました。

清左衛門も
田んぼの仕事を
終わって
帰っていて
食事を
待っていてくれました。

「ご苦労」と
清左衛門は
亀太郎に
声を掛けました。

ふたりは「ただ今帰りました」と
言って
手足をゆすいで
夕食の座に
座りました。

翌日
おますは
全身筋肉痛でした。

農作業で使う
筋肉と
違うところの
筋肉を
使っていたのだと
思いました。

しかし
筋肉痛で
休むことなど
許されるわけもありません。

同じように
朝早く
大八車を
引っ張って出発しました。

70

体が温まってくると
傷みも
和らいで
その日も
5回運びました。

次の日も
5回
宮水運びをしました。

1週間くらい
経つと
体が出来上がってきて
相当の早さで
運ぶことができるようになりました。

しかし
5回が限度のようでした。

もう少し
日が長くないと
6回は
無理だと
ふたりは
話をしました。

雨の日は
宮水運びは
できないことに
なっています。

雨水が
混ざることを
酒蔵が嫌がるためです。

雨の日は
休んで
藁仕事をしていました。

雨が止むと
すぐに
大八車を
出して
宮水運びをしました。

しかし
雨上がりは
大変です。

ぬかるんだ
地道を
細い車輪の
大八車が
進むと
めり込んで仕舞うのです。

行きはともかく
帰りの荷がある時には
少々の力では
抜け出すことなど
できません。

かけ声とともに
一緒に力を出して
やっとこさ
抜け出すのです。

また轍(わだち)が
深く出来上がっているところなどで
曲がる箇所があって
やっくりいかないと
倒れてしまうし
ゆっくり行っていては
乗り越えられないし
そんなところでは
手を焼いたものです。

うしろの
おますは
それがわかっていて
力加減をしてくれていました。

亀太郎は
おますは
「良い相方」と
心の中で
思いました。




71

亀太郎と
おますは
ふたりだけで
仕事をしていました。

現代では
夫婦が同じ仕事をしている方は
少ないかも知れません。

江戸時代なら
夫婦が
同じ仕事をすることは
当たり前のことでした。

人口の
9割が
農業従事者であった
江戸時代では
夫婦が
揃って
農作業をするのは
当たり前でした。

しかし
亀太郎と
おますのように
ひとつの
大八車を押して
仕事をすることは
希です。

女性が
非常に
大変な仕事である
大八車のあとを押して
男と同じ仕事をすることは
希だったのです。

おますは
前にも言ったように
身の丈
6尺の
大きな女性でしたが
やっぱり
女性です。

おますが
その
大変な仕事を
できたのは
ひとえに
精神力です。

何が何でも
お家の隆盛を
高めることを
ふたりは
言葉も交わさず
理解し合っていたのです。

ふたりの夢は
ただひとつ
「自作農」になることだったのです。



72

口には出しませんが
小作人なら
誰しも
地主になることを
願うのは
当然です。

しかしそれは
実現が
絶対できない
夢です。

現金収入が
ほとんどない
小作人が
田んぼを
手に入れることなど
全く不可能です。

しかし
状況は
少しずつ
変わり始めていたのです。

ふたりは
それに気が付いていました。

代々小作人の
亀太郎の家でも
現金収入が
入ってくるあてができたのです。

年末になると
その夢は
夢ではなく
達成可能な
計画に変わりました。

節季(盆と暮れの時期)になると
酒蔵が
水運びの代金の
支払を始めたのです。

300回あまり運んだ
亀太郎は
清左衛門と一緒に
酒蔵に行きました。

今までに見たことのない
銭です。

それもまとまった
その銭を
見た時は
びっくりしました。

銭は
糸を通してあります。

清左衛門は
満足そうでした。

亀太郎を見て
「よくやった。
いくらか持っていくか」と
尋ねてきました。

「すべて
蓄えておいて下さい」と答えました。

銭をもらった
連中の中には
西宮へ
遊びに行くものも
多くいました。


73

清左衛門は
亀太郎は
やはり
家督をゆずるのに
充分なものだと
思いました。

そして
嫁のおますの信頼も
上がりました。

清左衛門は
倉の
一番奥の床の下に
新し
秘密の金倉を作って
銭を蓄えました。

銭は
相当かさがありますので
大きなものを
作りました。

みんなには
内緒です。

おますは
亀太郎には尋ねませんが
入った金額は
概ね理解していました。

雨上がりの日に
宮水運びをして
5回目を運んで
大変疲れた時に
大八車の
後ろに
おますを載せて
歩いている時に
「三年経ったら
田んぼを買おう」と
亀太郎は
そっと言いました。

おますは
三年で
地主になれるのかと
心の中で
大喜びしました。

月明かりのなか
ふたりは
きっと
実現する夢に
胸を
ふるわせました。






74

亀太郎が
宮水を
運んでいる
酒蔵は
相当景気が良さそうです。

年明けには
新しい
酒蔵を
作ると
言っていました。

京都や江戸への
清酒の販売だけでなく
地方への
販売も好調でした。

灘の清酒の
名声は
幕末の頃
全国に知れ渡っていました。

宮水を運ぶ
亀太郎たちにも
酒蔵は
期待を寄せていました。

宮水の確保は
絶対条件だったのです。

利害が
一致した
酒蔵と
亀太郎は
ともに繁栄していきます。

おますとともに
宮水を運んだあと
藁細工も
しました。


春になると
農仕事が
忙しくなります。

それと同時に
宮水運びも
終わります。

宮水運びの代金を
酒蔵へ
ひとりでもらいに行き
同じくらい
銭を
懐にして
帰りました。

帰りの途中
村では
札付きのものに
出会いそうになったので
走って
帰りました。

お金など
持ったことのない
亀太郎は
心配だったのです。


75

水飲み百姓の
小作人なら
泥棒とは
全く無縁のものです。

しかし
曲がりなりにも
銭を
蓄えた
清左衛門の家は
心配でした。

皆には
お金がない風を
装っていました。

別に
装わなくても
誰が見ても
貧乏所帯であるように見えたのですが
清左衛門は
そうだったのです。


そんな
清左衛門の家は
村はずれの
里道に沿ったところにありました。

江戸時代初めには
小作人の家は
おおかた
竪穴式住居だったのですが
幕末のこの頃には
そのような家に住んでいる人は
いません。

竪穴式住居のような
掘っ立て小屋は
長持ちしません。

それの方が
非経済的だったのです。

江戸時代の終わり頃の
家の作り方は
その当時の
技術としては
確立した合理的なものでした。

まず
建てる敷地を
少しかさ上げします。

水田は
低い方が
水がよく入ってきます。

洪水の時に
田んぼに残される
土砂などが
あまっているので
それで
一応
土盛りをします。

お金持ちの
大地主さんは
洪水に遭わないように
石垣を積んで
高くしていました。







76

清左衛門の家は
里道と同じくらいの高さです。
道の北側に
敷地があって
形ばかりの
木の門があります。

まわりは
これまた
形ばかりの
木の塀があって
腐ったところが
所々
修理してあります。

門を入ると
右側に便所
まっすぐ進むと
母屋
左が倉庫です。

母屋の作りは
敷地を固めて
延べ石を回します。

軟石を
6寸の4寸くらいの
長さ3尺から4尺程度に
加工したものです。

壁の下に
ぐるっと
突き固めながら
回します。

その上に
木の柱を立てます。

もちろん建てただけでは
倒れてしまいますの
壁のあるところには
柱同士を
貫という部材で
貫くように
接合します。

貫は
下から地貫中貫鴨居貫と呼ばれています。

柱の上に
桁を回し
桁の上に
梁を渡します。

梁の上に
束を立て
その上に
母屋を渡して
垂木をその上に渡し
茅受けを渡して
茅葺きとします。

今津の横の
枝川は
荒れ地になっていて
ススキが
繁茂していました。

そのススキを
刈り取って
使うのです。





77

秋のお月見の時に
飾るあのススキを
刈り取ります。

1軒の家の屋根を
葺くのに要する
ススキの量は
半端ではありません。

人手も要りますので
村の助け合いで
葺きます。

一年に
何軒も吹き替えできませんので
前もって決まっていました。

宮水運びをしたくても
茅葺きの
手伝いに
動員されてしまうのです。

地主さんの家は
瓦葺きで
茅葺きでないの
その面からも
地主は良いと
亀太郎は思っていたのです。

壁についても
ただで手に入る
材料を使います。

竹藪で
竹を取ってきて
壁に
格子状に
組みます。

藁縄で
いわえて
頑強に作ります。

田んぼの土で
特に細かいものを
水で練って
藁を入れて
塗り込みます。

裏からも
同じよう塗って
下塗り完了です。

地主さんの家なら
この上に
細かい砂を混ぜた
中塗りをしたあと
漆喰を塗って
出来上がりですが
お金のない
小作人らは
粗塗りという
これだけで終わりになります。





78

荒壁だけの
家は
隙間だらけです。

天井もなく
かやぶきの屋根が
下から見えるのです。

寝ていると
上から
虫や
ヤモリ
蛇なんかが
落ちてきたりすることも
あります。

雨露が
しのげるだけで
幸せと
思っていたのです。

しかし
大雨の時には
雨は漏るのが普通でした。

家の床は
土間の部分と
板張りの部分があります。

畳の部分は
座敷のところだけです。

亀太郎が
いつも寝起きをしているところは
板敷になっています。

家は
夏の暑さと
冬の寒さ
和らげるものでなくてはなりません。

冬と
夏は
相反しますので
普通は
夏に合わせてあります。

座敷の
窓は
雨戸と
フスマになっています。

フスマの
紙は
相当貴重なものなので
高価なものです。

北側の
亀太郎の部屋の窓は
連子窓になっていました。







79

連子窓というのは
縦格子になっています。

外側と内側の格子があって
内側の格子は
動きます。

内の格子を動かすと
窓が開いたり
閉じたりします。

開いたら
光も入りますが
風は入ってきます。

ガラスはありませんので
冬の寒さを
防ぐことは
相当困難です。

冬場は
昼でも
窓を開けることは
できません。

亀太郎は
日がある間に
家にいることなど
ほとんどというか
全然居ないので
そんなことは
問題はありません。

一方
夏には
大きな問題があります。

そんな窓ですので
もちろん
夏の蚊も
防ぐことは
できません。

昔は
農薬などない時代ですから
蚊が
我が物顔で
飛んでいました。

江戸時代の末期になると
蚊帳(かや)が
一般的になります。

昭和50年頃までは
使っていた家庭も
多かったのですが
知らない人も
おられるかも知れませんので
蚊帳を
解説します。

蚊帳は
寝ている時に
蚊に刺されないための
器具です。

薬品や
電気など
一切使わない
エコロジーな
器具です。



80

蚊帳は
寒冷紗と呼ばれる
麻や綿で
目を大きく平織りした生地で
作ります。

何分
水飲み百姓の身分では
お高いものです。

夏の貴重品と
いった方が良いでしょう。

亀太郎は
小さい時から
蚊帳の取扱には
大事にするように
父母から
厳命されていました。

蚊帳を
踏むことなど
絶対にしては
いけないことになっています

蚊帳は
朝起きたら
畳むことになります。

蚊帳は
立体的になっていますので
畳み方が
あります。

亀太郎は
知りませんが
新品の
蚊帳は
糊がきいていて
シャキッとしています。

だからといって
良いかというと
そうではありません。

シャキッとしているために
床と
沿わないのです。

そう言うと
古い方が良いと言うことに
なるのですが
それには
限度というものがあります。

蚊帳は
普通は
洗えませんので
何十年も
使っていると
どんなに
大切に使っていても
傷んできて
その上
臭いがします。

蚊帳の古い臭いです。

どんな臭いかというと
言葉にはできませんが
カビ臭です。




81

そんな臭いも
何のその
蚊に刺されるより
ましです。

蚊帳の中に入るのには
ある流儀があります。

蚊は
人間の
臭いや
二酸化炭素によってきます。

江戸時代の
末期の頃
小作人は
よく働きます。

蚊のでる時には
汗の出る時です。

蚊が
人間を見付けるのに
苦労はしません。

何十何百という
蚊が
亀太郎に襲いかかります。

亀太郎は
蚊を
追い払うために
団扇(うちわ)を使います。

まず
中に入ろうとする
蚊帳のまわりを
激しく
団扇で
風を送ります。

相当広い範囲です。

それから
亀太郎自身を
激しく
扇ぎます。

それから
少し小さくなって
両手で
蚊帳を
そっと持ち上げ
中に張ります。

この時に
蚊帳が
何かの下敷きに
なっていないか
よく確認しなければなりません。

何分古い
弱った
蚊帳ですので
そっとです。




82

夏の必需品は
蚊帳ですが
冬にも
寝る時の
特別の
必需品は
枕屏風です。

今は
そんなものが
全く必要ではないですが
江戸時代末期の
極めて風通しの良い
あるいは
よすぎる家では
絶対に必要な品です。

亀太郎が使っている
枕屏風は
もちろん
誰かのお古です。

しかし大切にしているので
紙でできていますが
破れてはいません。

当時の紙は
すべて
和紙ですから
強かったのかも知れませんが
色は
黄色く黒くなっていますが
充分に使えます。

よく見かけるような
絵や
字も書かれていません。

最初は
書かれていたのですが
中古で
新しく表具したときに
無地になったのです。

ところで
この枕屏風
なぜ
冬の必需品かというと
それは
すきま風です。

寝ている時に
頭や
首筋に
風が
直接当たらないように
枕元に
矩の字状に置くのです。




83

枕屏風を
なぜ置くかというと
すきま風から
肩口を守るためです。

「お布団で守ればいい」
とお考えの方は
いわゆるせんべい布団で
寝たことのない人の
言い分です。

それに
江戸時代は
必ず
横向きに寝ていました。

肩が
張っている
亀太郎は
硬いお布団が
沿いません。

隙間だらけになります。

枕屏風の
出番です。

ものを
大事にするのは
貧乏人の
小作人なら当たり前です。

いつに買ったか
わからない屏風を
見ながら
十年一日が如く
時間が過ぎていくのが
幸せと
みんなは思っていました。



亀太郎たちは
時代の流れについては
全くわかりませんでしたが
結婚した年は
薩英戦争が起こり
攘夷の機運のまっただ中になっていました。

逆に言えば
鎖国政策が
一番大きな
政策であった
江戸時代が
終わりを告げてくるのです。

亀太郎の
第一子が
生まれた翌年には
大政奉還が行われることになり
江戸時代は
終焉となります。






84

今津は
街道筋にあります。

亀太郎の家は
街道筋から
少し離れているので
人の動きを
まともに見る事ができませんが
その噂は
充分に伝わってきます。

結婚した翌年と
初めての子供が生まれた年には
長州征伐の
たいそうな
幕府軍
西国街道を
西に進んでいきました。

亀太郎も
噂を聞いて
その進軍を
見に行きました。

初めてみたので
驚きました。

大名行列は
遠くの方から
見たことがありますが
そんなゆっくりした
行進ではなく
焦ったような動きでした。

甲冑の類は
付けてはいませんでした。

かなり
おおきな
荷物を持っていて
中間に
大砲を引っ張っている
馬がいました。

列は
朝から
昼前まで
続くくらいの
長さでした。

1回目は
戦わずに
軍が引かれました。

2回目は
幕軍は
ほとんど戦わずに
敗走する始末です。

敗走の兵隊さんは
亀太郎は
見ませんでしたが
そんな噂は
聞きました。







85

政情不安は
土地の流動化を
生みました。

江戸時代の初めに
決まってしまった
地主と
小作人の
関係も
変わるきっかけとなったのです。

地主の中には
大きな事業を
起こそうと
田畑を
売却するものや
身を持ち崩して
切り売りするものも
でてきたのです。

また
米の
相対的価値が
急落したりして
田んぼの価値も
低くなってしまったことも
一因です。


今まで
高嶺の花だった
田んぼも
手に入れる
機会ができてきたのです。

宮水を運び始めて
5年
結婚してから
4年
ついに
清左衛門は
田んぼを買うことを
家人に打ち明けます。

亀太郎と
おますは
「ついに
願いが叶う時が
来たか」と
ふたりは思いました。

叔父さんや叔母さんは
少し唖然と
していました。

小さい子供は
何も
わかりませんでした。








86

米倉の
床下に
たくさんの
銭が
蓄えられていたのです。

村の集まりで
土地が売りに出ていることを
聞きつけていたのです。

不在地主の
土地が
売りに出されていたのです。

そこで
清左衛門が
買い取ることにしたのです。

地主になる
第一歩です。

村はずれの
田んぼで
今までの
小作地の隣になって
便利でした。

土地を買ったのは
幕末の
慶応三年1867年の事でした。

春から
小作地ではなく
自作地を
作り始めたのです。

嬉しくなってしまいました。

この頃の気候は
天保年間の
寒冷期が過ぎ
温暖な天気が続いていました。

豊作で
お米が
取れました。

小作地の
年貢を差し出し
自作地の
年貢も
代官所に納めました。

そしたら
手元に
お米が
残ってしまったのです。

いつものように
種籾と
飯米だけを残して
売ってしまうことにしました。

変わらず
麦飯を
食べる覚悟でした。

叔父さんや叔母さんは
少しがっかりしていましたが
家長の決めたことですので
従うしかありません。

亀太郎と
おますは
それで良いと思っていました。

10月になったので
宮水運びを
始めました。



87

その年には
薩長軍が
大勢
街道筋を
京都に向かっていました。

大砲を
馬に引かせていました。

兵隊さんは
揃いの
服装で
鉄砲を
持っていました。

刀も
腰に差していて
整然と
隊列を整えて
行進していたそうです。

そのあと
大政奉還があって
代官所の
要員が
変わるのですが
亀太郎には
そんなことは
わかりません。

その日その日を
生きていくだけです。

宮水運びを
せっせ
せっせしていた
そんな毎日を
送っていた
冬の日
村人の中に
「おかげまいり」を
しようとする
ものがでてきました。

おかげ参りとは
伊勢神宮に
参詣することです。

神社への
お参りですので
旅行ではありませんが
神社の
参詣を
口実に
旅行するのが
本音であったのかも知れません。

亀太郎が
生まれた頃は
同じ村からも
大勢の参詣者が
あったそうです。


88

幕末の頃は
薩長軍が
伊勢神宮の
お札を撒いて
おかげ参りを
誘発していたと
言われていますが
亀太郎にはわかりません。

今津から
伊勢神宮まで行くには
丸6日かかります。

大阪を過ぎて
生駒の山を越えていくには
大変でした。

おますと相談して
宮水運びを
優先しようと
決めたのです。

宮水を
運ぶものが
おかげ参りで
少なくなったので
日当が
少しだけ高くなったので
それを選んだかも知れません。

日当が高くならなくても
きっと
亀太郎は
宮水運びを
したと思います。

中央では
王政復古
大政奉還
版籍奉還と
めまぐるしく
変わっていきます。

天領だった
今津は
兵庫県という地名になります。

版籍奉還兵庫県は
府県統合を繰り返し
大きくなって
県令が
中央からやって来ました。

年は
過ぎていきますが
年貢は
ほとんど同じか
少し多くなっていきました。

今まで
殿様の名前を
知らなかったように
新しい
明治政府についても
亀太郎らは
知りませんでした。

89

政府が
どのように変わろうとも
清左衛門の家では
せっせと
農業をしていました。

亀太郎とおますは
冬には
おかげ参りや
飲みに行くこともせず
宮水運びをしました。

宮水運びで得た
銭は
その後も蓄えていました。

他の村人の中には
宮水運びで得た
銭をもって
西宮で
遊んでいるという
噂も
よく聞きました。

清左衛門がしっかりしていたのか
亀太郎が
堅実だったのか
おますが
うまく誘導していたのか
わかりませんが
いずれにせよ
清左衛門の家では
今までのように
働いていたのです。



大政奉還がおこなわれ
鳥羽伏見の戦いが起こった年の
7月に
亀太郎には
長男が生まれました。

鶴松と名付けました。

亀に
鶴と言うことで
清左衛門が
命名しました。

普通にいけば
清左衛門を継ぐ
子供の誕生でした。

鶴松の生まれたのは
明治元年7月21日のことでした。





90

鶴松が
生まれた年の年末には
もうひとつ
田んぼを買いました。

清左衛門の家は
清左衛門や
叔父さん
叔母さん
それに
亀太郎夫妻
亀太郎の妹と
弟と
働き手も多く
自作地もできて
小作料を払わない
土地が増えて
豊になっていたのです。

宮水運びの
現金収入が
大きかったのです。


中央の政治が
今津の村にも
影響が出たのは
神仏分離
廃仏毀釈です。

明治政府の
シンボルを
天皇にするため
天皇を神格化しなければなりません。

そのためには
神社と
お寺を
分けなければならなかったのです。

今津では
大きな
廃仏毀釈の運動は
なかったのですが
村の中の
神社と一緒になっていた
お寺を
別々にする必要がありました。

お寺の檀家に
今津の
大きな酒蔵が
ありましたので
敷地と
お寺を
寄進してもらいました。

酒作りは
この時代
最も儲かる
業種だったのです。

そのおこぼれを
宮水運びの
亀太郎が
担っていたのです。

91

土地を
より所とする
封建社会が崩壊し
資本主義が
始まりはじめたのです。

酒は
その中で
大きな商品となっていました。

亀太郎と
おますの間には
明治6年に次女が生まれ
明治9年次男が生まれました。

おますは
亀太郎に従って
農繁期には
農仕事
農閑期には
宮水運びをしていました。

臨月近くまで
働いていました。

赤ちゃんが生まれると
1ヶ月は
休んでいましたが
その後は
仕事で
お乳を与えなければ
ならない間は
おんぶして
農仕事を
していたのです。

お乳を
与える必要がなくなると
亀太郎の
妹に
まかして
仕事に出かけていきました。

長女の
おせいが生まれた時は
子供の相手もしていましたが
2番目の
鶴松が生まれた頃は
仕事ばかりしていて
子供の世話を
全くしなかったのです。

鶴松は
それが
淋しかったのです。

清左衛門の家では
毎年のように
田んぼを買っていました。

田んぼが増えると
仕事が増えます。

そんな時
清左衛門は
牛を
買いました。



92

前にも言ったように
当時は
牛は高いものでした。

凄い力持ちで
田おこしが
人間の何倍という
早さでできてしまいます。

農耕馬が
一般的になるのは
明治時代の
中頃
庶民が牛肉を
食べ始める頃です。

牛馬を
扱う職業の人を
博労と言います。

博労が
もう少し時が過ぎると
牛が若いあいだは
農耕馬として使い
大きくなったら
食用牛とする商売を
はじめるのです。

農家は
安いお金で
牛を
仕事に使えるのが
利点でした。

まだそんな
商売がない時代に
清左衛門の家では
牛を買ったのです。

牛は
力はありますが
それを扱うためには
それ以上に
力がないと
いけません。

それに
生き物ですので
朝晩に
世話もしなければなりません。

何よりも
よく食べます。

牛には
朝晩に
麦を煮たものと
藁を切ったもの
それに塩を
与えなければなりません。



93

飼うためには
牛小屋
働かせるためには
鞍や
牛用の農具が必要でした。

牛の食費も
バカになりません。

当時の
百姓は
極めて粗食でしたが
人間以上の
大食漢の
牛は
はるかに
人間以上の
食費が必要でした。

それらの出費を
考えれば
小さな田んぼが
かえるくらいでした。



一人前の
農家になるには
必要で充分な
農機具が
必要だというのが
清左衛門の家の
教えでした。

お金を
遊ぶために使うことはせず
今風に言えば
貯蓄や
投資に使うことが
最善だと考えていた
家だったのです。

今までは
投資するお金や
貯蓄するお金などなかったのですが
宮水運びで
銭が手に入ったので
それを
実践できるようになったのです。

牛を飼うための
方法を
地主さんの
番頭さんに
聞きました。

叔父さんに
牛小屋を作ってもらい
牛がやってきました。

若い牛で
目がとても可愛くて
亀太郎の
子供も
「可愛い」と
言っていました。

先ず牛を
川に連れて行き
体を
洗ってやり
櫛を通してやりました。

94

亀太郎は
牛の世話を
よくしました。

牛が働くであろう
田おこしまでには
時間があったので
楽しみでした。

宮水運びをして
牛の世話をして
大変でしたが
やっていました。

おますも
牛の世話をしました。

牛にエサを与えたり
牛小屋の
掃除もしました。

牛の糞は
肥(お米や野菜の肥料)
としての価値が高く
臭いとかは言いませんでした。

ある意味
おますは
子供より
牛の面倒をみていまいた。

春になって
田おこしの時期になると
牛の出番です。

亀太郎は
牛を
操れると
思っていました。

練習したように
鞍を付け
鋤を
引っ張るように
付けました。

手綱で
牛に指示をしたのですが
牛が
歩き始めません。

前に行って
引っ張りました。

少しは
歩き始めましたが
これでは
人間がやるのと
あまりかわりありません。

そこで
おますを
呼んできて
助けてもらうことにしました。





95

おますが
牛を
引っ張ると
牛は
おとなしく付いてきました。

凄い力で
鋤(すき)を引っ張って
田おこしするのです。

牛が引っ張る
鋤は
長い柄が付いていて
その一方に
牛が引っ張るところ
もう片方に
土に食い込むように
付けられた枝があり
その枝のもう片方は
伸びて
手で操れるようになっています。

牛が
引っ張ると
土に食い込む柄を
操って
土を斜め前に
持っていきます。

土の当たるところだけ
鉄でできていました。

土に食い込む程度を
操るのと
まっすぐ進むのが
難しいのです。

あまり食い込ませると
いくら何でも
牛の力では
進めなくなるのです。

1日目は
さんざんでした。

おますがいなければ
少しも進めない
有様です。

仕事が終わって
川で
体を洗ってやりました。

牛も
初仕事で
相当疲れているようでした。

帰って
牛小屋に入れると
牛のエサを
おますが
持ってきました。

96

体が綺麗になって
嬉しいのか
牛は
エサを
がつがつと食べ始めました。

亀太郎は
牛の頭を撫でながら
「言うことを
聞いてくれよ」と
言いました。

おますは
横で
「人間でも
牛でも
優しくしないと」と
話しました。

その翌日も
おますに付いてきてもらって
牛と一緒に
田んぼの仕事をしました。

2日目は
わりとうまくいきました。

まだまだ牛が若いので
大きな力がないので
それに注意して
扱った方が
いいとも
近所の人から
忠告を受けました。


優しく
牛を扱うことに
注意していると
牛の方も
だんだんと
亀太郎の言うことを
聞くようになりました。

おますがいなくても
扱えるようになって
亀太郎は
清左衛門に
それを伝えました。

その年は
夏場
雨が続いて
他の村人の
田んぼの出来は
もうひとつでしたが
清左衛門の家の田んぼは
まあまあでした。

その年も
田んぼを
買いました。

その翌年
国へ納める
年貢が
地租という名前になって
お金で納入することになりました。

小作地は
従前のように
お米で
地主に納めるのですが
自作地では
お金の納入が
決まったのです。




97

お金で納入は
ながく小作人を
続けてきた
清左衛門には
青天の霹靂です。

雷よりも
びっくりなことでした。

お米を
多量に
売らなければなりません。

お米は
当時は
相場商品になっていて
一夜で
お米の売り渡し価格が
変わってしまいます。

良い時に売らなければならないのですが
相場が
どのように変わるかなど
経験もない
清左衛門は
困ってしまいました。

そんなわけで
買いに来た仲買人に
安く売ってしまったこともありました。

世間の情報が
わかる新聞が
発行されるまで
今しばらくを要していましたから
清左衛門は
この面では
相当の損をしていたようです。

その損を
宮水運びと
農仕事で
取り戻していました。

亀太郎の長男の
鶴松が
8才になった時
姓を
役場に届けるようにと
命令が
各戸に
届きました。

今津村の
村民の中には
江戸時代初めに
姓が禁止された時の
姓を
代々表には出さずに
覚えている
ものも多くいました。

しかし
清左衛門の家では
屋号の
カネセイの方だけが
伝わっていて
姓が伝わっていなかったのです。


98

姓が不明で
困った
清左衛門は
当時村で一番の
知識を持っていた
寺の住職さんに聞いて
みることにしました。

清左衛門と
亀太郎は
西本願寺の末寺の
お寺に行きました。

住職は
亀太郎が
字を教えてもらった
先生に当たります。

住職は
過去帳を調べてみると
言って
くれました。

何日か過ぎたあと
お寺に行くと
住職さんは
「残念ながら
過去帳や
寄進帳を
調べたが
姓の手がかりになる様なことは
見つからないと
言われてしまいました。

そこで
新しく
姓を
作ることにしました。

姓は
地名を
取るのが
昔からの
習わしだそうです。

村人の中の
姓とおなじでない
「野田」が
良いと住職は
提案してくれました。

清左衛門と
亀太郎は
「野のように広い田んぼ」の
野田は
縁起が良いと
思って
それに決めて
役場に届けることにしました。

野田清左衛門
野田亀太郎に
この時からなったのです。

99

戸籍にも登録され
正式に
野田亀太郎になっても
カネセイの呼び名は
なくなりませんでした。

そこで
「野田」の
表札を上げてみることに
しました。

当時は
郵便はもうありましたが
全く一般的ではなく
知らぬ人が
家を訪れることなど
なかった時代ですが
「野田」と
名乗ってみたわけです。

カネセイが
野田に変わっていくのは
地主としての
力を
付けてからです。

毎年のように
田んぼを買い取り
誰もが認める
地主となっていきます。

明治9年
2番目の男の子
伊之助が生まれた頃には
小作地が1町歩
自作地が2町歩ありました。

農業に従事できる人間は
清左衛門と
清左衛門の弟と妹
亀太郎とおます
亀太郎の弟の
8人と
牛が1頭です。

しかし
清左衛門はすでに
72才になっていて
叔父さんは
既になくなっていて
叔母さんも
相当弱っていました。

清左衛門の家のものは
相当
長寿筋ですが
よるとしなみには
耐えられません。

そこで
作男(さくおとこ)を雇っていたのです。

村人の中で
よく仕事をする
次男坊を
ふたり雇っていたのです。

江戸時代は
土地は
小作に出すのが
普通でしたが
清左衛門は
自分で家で
田んぼを作るのが
良策だと思っていたのです。

100

来てくれた
作男は
若くて
屈強で
牛の取扱方が
上手です。

本当に助かりました。

清左衛門は
若い者と同じように
朝は起きて
田んぼへとは向かいますが
ほどほどの仕事です。

夜も
皆と同じ時間まで
仕事をしていました。

家長として
その役目を
果たしていました。

農業に
従事する人間は
すべて
スーパーマンです

スーパーマンでないと
勤まりません。

女性も
スーパーマン
いや
スーパーウーマンで
歳にもよりますが
スーパーマンより
よく働きます。

少なくとも
男性より
早く起き
遅く寝ます。

いつ寝ているのかと
世間を
よく知っている
人間なら思ってしまいます。

おますの一日は
まず
男どもが
起きる前に
起きます。

先ず
火をおこします。